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牙を剥くsolitude

私が病人だからそうなのか、それとも生来の気質なのか全く分からないが、私はこの先続くだろう孤独に恐怖し、気が狂いそうになることがよくある。今の私はまだ若い。若い故に孤独をsolitudeと気取って痛々しい人間を演じながら遊びほうけるのは許される行為だと思っている。けれども、中年を経て私が高齢者となった時でもその孤独に耐えられるとは思えない。そうなるとこの孤独を埋めるのは何か。

人間の成長に沿って孤独を埋める方法を俯瞰してみると、真っ先に思い浮かんだのは家族だった。私の家族は家族という単位を一種の機能、若しくは契約としての集団と認識していて、よくある愛という感情を一切持ち込まずに生活していた。とりわけ母親は子供達を立派は作品にするべく様々に子供へ手を加えた。結果失敗作が出来上がったのだから私としては笑ってしまう。それはそうとして、そうやって創造主と作品の立場で20年近く過ごしたために、作品は創造主から離れた途端自身の拠り所を失ってしまった。私を保証する存在が居なくなった。つまり孤独を理解したのだ。この孤独を埋めるには何をすれば良いのか私は悩み、手段を探し始めた。そうして見つけたのが承認欲求である。幸い私は病によって承認欲求を飼い慣らすことに成功し、SNSでよく見かける承認欲求お化けにはならなかった。けれどもこの承認欲求というものが僅かに孤独を埋めることに気づき、こうやってネット上で訳の分からないことを呟いたり、喚いたり、時々は嗚咽を漏らしている。これは正解なのか?

孤独を埋める手段が家族から承認欲求に移動してしばらく経過し、自身の病によって飼い慣らした承認欲求はあまり役に立たないことに気がついた。そして新たに気付いたのは「私は何故孤独を感じるのか」という原初の疑問だった。その答えを私は人間の創作物に求めた。音楽を聴き、絵画を見つめ、思想の海に潜り、そして他ならぬ私が何者なのかを探し続けた。人間は美しい創作物よりも劣った存在であるという身勝手な考えに基づいて、私はこの無機物達と真剣に向き合っていた。けれどもそれらから返答が返ってくることは一切無く、自身の存在を自問自答しても負の循環が奔流となり不安を増幅させる始末。結局私は理由も無く孤独になっていることに気付いた。そして無機物は私が孤独から目を逸らす為の気晴らしに過ぎないということも否応なしに理解させられた。そうして「世界はまさしく地獄にほかならない。そして人間は一方でその中でさいなまれている亡者であり、他方では地獄の鬼である」という言葉の通り亡者である自身に絶望していた。人間は無機物よりも劣った存在だと思っていたが、最早なりふり構っていられないので私は人間にも孤独を埋める可能性を探し始めた。

人間を使ってこの孤独を埋める。勿論この人間とは人格を持ち、私とは全く違う存在である。良いのか?相手は人間。人間にこの孤独を埋めさせる、言わば私の「孤独を埋めたい」という純然たるエゴイズムに赤の他人を巻き込む理由が何処にあるのか?そもそも私が他人をそうやって道具のように使う資格など全く無い。このエゴイズムを「そうである」と開き直って肯定し、相手に埋めさせるほどの度胸も無い。中途半端に私は他人を認めてしまっているが為に、そして孤独を埋める大仕事の報酬となるかもしれない愛という感情を理解していないが為に、私は人間を「取りあえずの孤独を埋めるインスタントな存在」として扱ってしまっている。つまり私は人間を人間として扱うことも出来ないのだ。そのような存在の屑は恐らく死ぬまで孤独に苛まれて狂い死ぬのがお似合いかもしれない。

こうやって様々に無駄な思考を重ねていても今は全く問題ない。solitudeを楽しんで、同級生やこれを読んでいる誰かと遊んで孤独から目を逸らすことが出来る。けれどもこのsolitudeはいずれ私に牙を剥く。孤独を押しつけ私を殺す。その前に私がこの解答を見つけられるのか。