Twitterには収まらないうだうだを書く。Twitter:@motose__

日記という病的かつ変態的な存在

19世紀にアンリ・フレデリック・アミエルというスイスの哲学者がいた。彼は30年にもわたって日記を書き続け、死後その日記の完成度の高さが評価されている。日記と言われて我々のようなその辺の一般人が思い描くのは「~をした。~を見た、聞いた。」といった事実の羅列かもしれないが、アミエルの日記は違う。ジュネーブ大学で哲学の教授だった彼は自身の思想、内省を日記に残している。自身の思想を極限まで磨き上げるための手段として用いた日記は内容の明晰さ、誠実さにより世界中で刊行され、日本でもその翻訳版が読める。TwitterFacebook、そして数多のブログサービスが変則的ではあるにせよ、自身の行動を記録する日記としての側面を持っていることは否定できない。日記とは一体何者なのだろうか。

チェーザレパヴェーゼの日記には、以前に書いた極めて抽象的な事柄に後日注釈を書き加えている。「個人の内面を書き出し、保存する」日記としてはこれほどにない完成形である。日記を行為の記録として捉えているのならばこのようなことをするわけがない。けれどもある種の人間には過去の行為、思考を繰り返し再確認した上でその注釈や新しい解釈を加えていかなければならない。全くこれほどの病的な行為があるだろうか。行為を記録するための日記にはこれほど執拗に読み返し、記述を追加する必要はない。しかしこうやって過去を振り返って何かを再発見する行為は、日記を書くという行為をまさにそのまま表現しているのではないか。そう私は思う。

日記を書く。その行為はその時の記憶を保存するに等しい。瓶にジャムを詰める行為と似ているのだ。では瓶詰めのジャムと日記は何が違うのか。中身が消費され、その結果として消失するかどうかだろう。ジャムをトーストに塗ればいつか瓶の中は空っぽになってしまう。しかし、過去の日記を読み返して注釈を書き加える行為によって瓶の中に保存された日記が消えることはない。ジャム瓶は中身がなくなったらその目的を全うするが、日記は永久に瓶の中身から消えることはなく、中身を舐めて新しい解釈を加えることで自己増殖を続けていく。消え去ることがなく、新しい何かを加えて絶えず増殖するその様は保存、と言うよりも収集と表現する方が適切かもしれない。

コレクターという人間が世界中に存在する。収集に満足してそれから一切の収集を行わないコレクターが存在しないように、日記も収集行為として捉えるならば永久に終わらない保存行為を強いられるのだ。考えてみれば当たり前だ。日記を書く行為が断絶されるのは面倒くさいという感情だけであり、その感情に気付かない限り永遠に日記を書く行為は続く。さきほども記述したように日記を書く行為を一種の収集行為と見なすならば、日記を書くことが目的となっていて、いずれ読み返すという行為が二の次になっているとも考えることが出来る。目的と手段が逆転しているのだ。こうなってしまったらもう誰も止められない。この変質者は一生日記を書き続けるのだろう。

そして、収集や保存を目的として書かれた日記とは何者なのか。断言できる。これは書いた本人の複製に他ならない。日記に絶えず分裂した自身を投影させ、その時の記憶をいつでも再体験できるように書き記す。これほどの変態的行為はもう一種のフェティシズムと表現しても良いのかもしれない。

このように日記が保存するものは瓶詰めのジャムとは性質が異なる極めて特殊な、いってしまえば財産となる。その財産を我々は今持っているのか。持っているはずである。TwitterFacebook。今や自己を複製、保存する行為は商業的なサービスによって支えられ、誰もがその病的な行為に没頭することが出来る。

自己の複製を希望するその感情は人類にとって本能そのものと表現できるだろう。我々を設計している遺伝子がそうさせているのかもしれないが、いずれにせよ生物は何らかの形で自身が存在した証拠を世界に残そうと狂おしいほどの努力をしている。その形の1つが日記であるし、手っ取り早く自己の複製を行いたい人間は家庭を作って自身の遺伝子を半分受け継いだ肉塊を作っている。Web上に自身の複製を残すのだってそれらの行為と何ら変わりなく、そうやって作った財産に我々が一度でも満足することは絶対にあり得ない。満足しない我々は一生こうやってWebの大海に下らない複製を流し続け、埋まることがない自身の複製欲求をこじらせて頭を狂わせている。

純粋な意味での日記という存在は恐らく昔ほどこの世界には存在しなくなった。けれども今の世界にはその真髄を受け継いだ行為が山ほどある。日記を書くとは、自己の複製と保存を目的とした変態的かつ病的な行為。それは現代の我々にはかつて無いほど身近な存在になり、身近になりすぎたが故に我々を狂わせている。なんとも愛らしくももどかしい、この存在を我々はいつか飼い慣らすことが出来るのだろうか。

 

富永茂樹「都市の憂鬱 感情の社会学のために」を読んでこんな下らないことを考えていた。