Twitterには収まらないうだうだを書く。Twitter:@motose__

鬱になって

生涯で1度でも鬱病を経験する確率はおよそ5.7%らしい。学校のクラスが30人程度と仮定すれば1人は鬱病であるのかもしれない。高校2年から10年近く鬱と付き合ってきた私が、実際に鬱になってどんな経験をしたか適当に書いていこうと思う。

 

私の感覚では、鬱は「今まで容易に行っていたことが急に出来なくなる」ことの繰り返しだった。例えるなら外出する時に靴紐が急に結べなくなり、その原因が分からず靴紐を結べるようになる方法すら全く分からない状態とでも表現しようか。発端は夏休みの課題で漱石の「こゝろ」を読んだことだった。この小説を読んで訳もなく涙が止まらなくなり、読了した当日は机の下でずっとうずくまっていた。それ以降、人の声が聞き取れなくなる、痛みに鈍くなる等の経験と経て、受験生となる高校3年で度重なるストレスによって病状が顕在化してきた。

まず言葉が意図したように口から出せなくなった。頭の中で考えていることを口に出そうにも訳の分からぬフィルターに通されてその言葉がどこかへ飛んで行ってしまう。無理に話そうとするものなら単語の羅列でしか会話が出来なくなっていた。言葉を満足に発せない状況は半年ほど続いた。1浪時代は恐らく1年間で数えるほどしか口を開かなかったと思う。

次に文章が読めなくなった。よく「視線が文章の上を滑って行く」と表現されているが、文字通り視線が文章を捉えることが出来ずに今読んでいた箇所が全く分からなくなる。横に書かれた文章を読もうとしても視線は斜め下へどんどん動き、頭に入ってくるのは意味を成さない文字の羅列になる。どうにもならないので当時の私は定規を使って文章の下に直線を作り、その線をなぞって読み進めていた。当然読解のスピードは健常者のそれを遙かに下回る。文章を正常に読むことが出来ず、それに加えて壊れた頭脳で無理矢理内容をかみ砕いていた。文章が読めないことにストレスを貯め、かみ砕くことにもストレスを貯めていた。鬱であることが更にストレスを生んだ。

次は味覚。食事という行為がストレスの源になっていた。舌では味を感知しているはずなのだが、脳がそれを拒絶していた。結果舌に残る塩味、酸味、苦みを感じ取ってもそれらが不快な感覚としてしか把握出来なかった。そうなると何も食べたくなくなるし、実際に私は現役生での受験中(浪人中の方が酷かったが)殆ど食事を取らなかった。結果大学受験で15kg体重を減らした。

聴覚。この頃から砂嵐のようなノイズ、最近の子供には分からないかもしれないがアナログテレビが電波を受信していない時のあの音とビープ音のようなノイズが常に聞こえていた。そのため人間の声をはっきりと聞き取ることが出来ず、誰とも会話しない日々が続いた。ちなみにこの耳鳴りはこの頃から10年間ずっと続いている。

次は記憶。これは極めて個人的なことだが、音楽という音楽を聴けなくなってしまった。仕組みはこうだ。鬱に苦しんでいる今の状態でこの曲を聴いていると、いつか鬱が寛解してこの曲を再び聴いた時に鬱の記憶を思い出して苦しむことになる、と。私が小さい頃好んで聞いていたバッハの無伴奏チェロ組曲第1番ト長調BWV1007プレリュードを鬱の時に偶然聞いてしまった時は思わずその場から全力で離れてしまった。これはあくまで個人的な経験だが、私が中途半端に音楽に触れて生きていたからこうなったのかもしれない。

痛覚。勿論鈍くなる。その結果私が何を始めたのかは言うまでもない。今でもこの行為に依存して、多分苦しんでいる。

そして人間。町中にいるあらゆる人間達が後光を背負っているように見えていた。人間が人間として生きて、存在することが私にとっては奇跡のように思えたのだ。そして人間達は例外なく私に侮蔑の視線を送り、私の罪を激しく罵っていた。勿論これらは全て幻だ。その辺にいる人間が後光を背負うはずがない。というか人間から発せられる光はハゲの反射光くらいだ。そして通り過ぎる人間が私のことを気に掛けることなどまずあり得ない。けれども全ての人間に、そして他ならぬ自分自身に四六時中罵られ、自殺を強要されるのは文字通り発狂する苦しみであった。実際に遠からず私は自殺を図り、死に損なった。

高校の終わりから発狂が始まり、大学生となってしばらくしたらその発狂が手に負えないものとなった。そこからようやく大学病院に連れて行かれ、統合失調症と診断されて治療が始まった。ちなみにその時に鬱、統合失調症、統合失調型パーソナリティ障害、発達障害のどれかと極めてあやふやな診断がされてこちらの理解が追いつかなかったのを覚えている。DSM-5によるとこれらは重なっている領域が多く、診断を確定することが困難らしい。取りあえず処方されたエビリファイをもう5年飲んでいるが、効き目があるのか分からず、明らかに分かるのは副作用の眠気だけだ。とは言っても投薬を中断したらロクなことにならないと理解しているのでなんとなく薬を飲み続けている。

 

ブラッディ・マリーを飲んで頭を揺らしていたら10年前の記憶が甦ったので、こうやって駄文を書き散らしてしまった。投薬は恐らく一生続くし、鬱が長すぎて鬱ではない精神がどのようなものか忘れてしまった。何時私が消えるのかは私自身にも分からないし、ニコチンやカフェインの力を借りて死ぬまでは生き抜いてやろうとポジティブなのかネガティブなのか分からない感情を最近は持ちつつ過ごしている。

これを読んだ貴方が幸福に生きられるように。