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鬱から寛解して

今年の始めに投薬が中断されて1ヶ月が経過した。

「経過を見たいから年度が変わったら一度来てね」

と言われたので4月にもう一度クリニックを訪れた。私はこの1ヶ月で生じた変化をわざわざ紙に書き起こし、それらが意味することを聞きたかったが主治医は

「もう来なくて良いでしょう」

と診察をあっさり終わらせた。このクリニックに通い始めて4年、考え続けた結果生み出された愚考の数々は誰に話されることも無く宙ぶらりんのまま。このままではなんだか納得がいかないのでこうやって殆どの人間が見ないだろう場所にひっそりと残す。Web上に残す理由など無いが承認欲求の怪物には抵抗できなかった。

鬱から寛解して何が変わったのか?それを私が最も実感したのは身体的な要素だ。声が出ない、靴紐が結べない、文章が読めない等々。脳が壊れた結果、人間が思考せずに行える動作を奪われたのは実に私を沈鬱にさせた。治療によって健常者と変わりなく、とは言えないがある程度の身体所作を意識せずに行えるようになった。現在でも細かな動作は手が震えてしまうが、ここまで回復したのだから良しと無理矢理納得している。感覚は身体的要素に組み込まれるのだろうか。粘土の味がする白米は噛めば甘みを感じるようになった。季節で変化する町の香りを区別出来るようになった。朝焼けの空を見るためにわざわざ外出するようになった。そして聞くだけで傷ついた曲を落ち着いて聞くことが出来るようになった。恐らく感覚もそれなりには回復したのだろう。10年以上続く激しい耳鳴りは未だに消えないが仕方が無いと割り切っている。

では寛解して変わらなかったことは?勿論ある。希死念慮はずっと私の首筋に住み着いてことある毎に私を屋上へ誘っている。他人の視線は変わらず私を突き刺しているし、往来ですれ違うと罵声が飛ぶ。幻聴や幻覚は全く消えず、今でも私を驚かそうとしている。けれども、私はそれらが幻であると理解出来るようになった。だから飛んでくる負の感情は全て幻影、たまに現実世界からのネガティブな槍が突き刺さっても気にしないフリをすることが出来るようになった。私から発生する負の感情、そして周囲から降りかかる負の感情。今までならこれらを真に受けて泣いたが、今では「そうである。だが私は傷つかない」と宣言することが出来る。実に歪んだ生き方だが、これが恐らく私にとっての最善手だから今更変える気は無い。

さて、晴れて精神の枷から自由になったが、此処で一つの疑問に私は直面した。私は病人だった。病人であることが私にとって一つの強烈な属性となっていた。下品な表現をするならば、私はメンヘラだった。キチガイを見るのは実に愉快なことであるし、事実私はそのキチガイを演ずるのが実に快感だった。ところが今はどうか。私は病人では無い。ましてや健常者でも無い。私は何者なのだろうか。このインターネット世界で私は常にメンヘラを演じていたから、今の私はどのように振る舞えば良いのか全く分からないのだ。私を表現する言葉が何も無い。この世界で属性を持たないことは死を意味する。どうやら私はこの病と捨てると同時にインターネット世界での身分を剥奪されたようだ。怖いか?怖いに決まっている。恐怖、焦燥、絶望、あらゆる負の感情が今の私に当てはまるだろう。しかしそれで良い。死なずにいられるのならばそれで良い。割れた器を継ぎはぎして修復したのだから、要らぬ圧力を掛けると再び精神が割れてしまう。何者にもなれないと自覚して生きることを強いられる。苦しいことだけれども、絶望の血に塗れた底なし沼から這い上がったのだからそれくらいは出来るだろう。

私は健常者では無い。しかし私は病人でも無い。実に中途半端な立場だが、少なくとも私は自身の暗い部分を曝け出す資格を失った。だから私はこの投稿を以て、鬱に関する発言を全て終わらせる。以降私はこの話題について一切口にしない。病気であることを誇りにして生きたくは無いから。私は前を向いて、光を見て生きる。なんてことを高らかに宣言することは出来ない性格なので、影を直視せず、時々前を見ながら生きることにしたい。

さようなら、私の影。もう再会しないことを願って。

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