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函館旅行

札幌に住み始めて7年が経過した。なのに札幌、小樽、登別しか行ったことがないのはどうも道民としての立場を無駄にしているような気がした。大学生は金が無いが時間はある、とよく言われるが私は時間と金が常に足りない。けれどもGWくらいは少しばかりの貯金を崩しても良いのではないか。札幌から近くてそれなりの観光地は何処かと考えて、何も決めずに函館へ行くことにした。生まれて初めての「観光を目的とした1人旅行」である。1人での旅行がどのような感触なのか全く分からないが、とりあえず旅行してみれば私が一人旅に向いているのかどうか分かるだろう。

 

1日目。貧乏学生なので勿論特急など使えない。高速バスというものに初めて乗ったがどの席も隣り合っていないので快適に過ごすことが出来た気がする。全国の至る所に存在する、適度な田舎は何処も同じ風景を持っている。その土地特有の何か、という雰囲気を感じられないのが薄気味悪い。けれども時々視界に入る草花は土地によって様々に植生を変化させていた。道央自動車道から見える景色は常に海と山、そして平面。近景は平面、中景は森、そして遠景に巨大な山がそびえている。あの山は樽前山というらしい。周囲には人工的な建造物が一切無いので山の全体像をはっきりと見ることが出来た。裾野の端から端までをまだ芽吹かない木々が囲んでいる。所々に存在する黒々とした針葉樹は、樽前山に向かって祈りを捧げる礼拝者のように見えた。つまり山そのものが神、そしてそれを取り囲む自然が信者か。神という山と動かぬ木々という巡礼者に、この土地に住んでいた先住民族は何を思ったのだろうか。下らないことを考えてながら時間を潰し、6時間かけて函館駅に到着した。

駅前

さて、イカが有名らしいが昼過ぎではもう市場は閉まっている。何処へ行こうか。駅前立ち並ぶ高層ビルは全てホテルでなんだか圧倒される。駅の南側に船が停泊しているのでなんとなく入ってみた。摩周丸という船らしく、かつて青森と函館を結んでいた船だとか。乗り物は好きだ(バスは嫌いだけど)。そして何より、乗り物に染みついた歴史を感じる瞬間が好きだ。船内には実際に使用されていた通信機器などが展示されていると思わず解説文を隅々まで読んでしまう。特に当時の運航を詳細に記録した映像などがあれば少なくとも2周してしまうのだ。自分が生まれてすらいない時代の雰囲気をこうやって感じることが実に気分良く感じられる。何も知らずに函館に来て、早速良い体験をした。

摩周丸の後部から列車が入り、海を越えた

しばらく南に歩いたら煉瓦造りの倉庫を再利用した地区に着いた。赤レンガ倉庫というらしい。中は所謂どの観光地にもあるような土産物の店だ。正直つまらない。海に面する道では派手過ぎる服装をしたグループがカメラマンを携えて歩いていた。

 

二日目。旅先の初日は必ず眠れず、無理矢理眠ったとしても日の出の前には起きてしまう。今回も同様で、目が覚めたときに外はまだ薄明の大気を纏っていた。ナトリウム灯が無言で列を成し、道を照らしていた。もう眠れないので外を歩いた。朝の湿り気、ひんやりとした空気、騒がしくない町の音色がやけに強く感じられる。そうか、私にとって旅行とは、見知らぬ土地で朝を迎えることなのだろうか。今までの旅行でも朝の光景は必ず記憶している。つまり今の私は、まさしく旅行をしているのだ。1時間ぶらついてホテルに戻ったら朝食が始まっていた。安ホテルの味気ない食事を軽く済ませて市場を見ることにした。函館駅前の朝市に向かったがどうみても値段に見合ったものが売られていない気がする。そして客引きが邪魔だ。私のように普段客引きなどされない人相でもこれだけ引き留められるのだから、害のなさそうな顔の人間にとっては障害物競走に等しいのではないか。一気に食事の気分が失せたが、後ろの観光客が自由市場について話していたので其処に行ってみた。自由市場は朝市よりは地元民向けの場所らしい。食堂のイカ刺し定食は1000円以上したが、朝市の値段を見たら良心的価格と理解出来た。よく食料品店で見るイカは白いが、此処のイカは薄い白。月長石に近い白をしている。断面の角が舌ではっきりと感じられる力強さと、白米と勝負できる甘さが記憶に残る味だった。

イカ刺し定食

何も考えずに函館を旅行先に決めたが、どうやら今の時期は五稜郭で桜が満開になっているらしい。天気は晴れで私に味方している。最寄り駅から五稜郭の間にあるラッキーピエロあじさい本店には既に行列が出来ていた。

タワー


五稜郭タワーを通過すると途端に桜が溢れかえった。北海道では珍しいソメイヨシノだ。札幌に咲くエゾヤマザクラは風に吹かれても散ることは無い。五稜郭では風が吹く度に観光客達が頭上を見上げていた。風が強いのでその分派手な桜吹雪になる。美しすぎてなんだか気分が悪い。「桜の樹の下には屍体が埋まっている」と言ったのは梶井基次郎だが、これだけの吹雪はやはり屍体から吸い取った生命力を源としているのだろうか。そう考えるとこの美しさに感じる不気味さにも納得が出来るような気がした。別に本当の死体が埋まっているとは露ほども思わない。けれども大量の人間が死んだ地に咲く桜には、普通とは異なるちょっとした怖さがあった。

五稜郭の桜

市電の終点駅からしばらく歩くと熱帯植物園に到着した。何故か猿が飼われていて、温泉に浸かっている。解説音声によると温泉に入りすぎた猿は毛が抜けるらしく。よくよく見ると文字通り全裸の(どの猿も全裸ではあるが)、つまり毛が抜けてみすぼらしい見た目になった猿がいる。猿というよりも、退化した果ての人間か。見ていて気分の良い光景では無い。加えて解説音声では偶に死ぬ猿のことを話していた。地位の争いで死ぬ猿というのは結構居るらしい。猿が猿を殺す争いを生き生きと語る音声が記憶に残った。屋内は良くある植物園の熱帯コーナーだった。

花(名前は知らない)

市電に再び乗って逆の終点へ向かった。海が見渡せる岬があるという。海は温暖な場所の概念という誤りが頭から離れないので、その観念を早く取り払いたい。既に今日だけで4km近く歩き、痛む足裏を気にしながら墓場に挟まれる坂を登ると急に視界が開けた。海だ。

眼鏡の視界に入りきらない海が私を迎えている。何を考えるよりもまず私は無意識に眼鏡(伊達)を取った。左から函館に続く北海道の陸地、尻屋崎、下北半島津軽半島、そして松前半島。

函館の遠景 矢印の先が五稜郭タワー

下北半島では大間の風力発電が忙しなく、けれども滑らかに回っている。遠く、遠くの風景だからと行って描画が粗くなる事は無い。動きがカクつく事など勿論無い。けれども実際にこうやって体験しないとそれを事実として認識し、納得することも出来ないのだ。

大間の風力発電

頭上は雲すら存在しない空。上を見上げると、視界の端には海が歪んで見えた。なるほど、光を捕らえる網膜は球状に分布しているから見える風景も勿論球状になるのか。人間は視界を球状に認識している事実を新たに知った。再び海に目を向けると、海面を疾走する風が波紋を作り出している。無限の方向から生まれる波紋は複雑に織り込まれて一枚の絨毯となった。この絨毯は一体誰に捧げられるのか。海を見る山か。それとも何処かに存在するのかもしれない、人間では無い何者か?目を閉じると感覚が冴える。風の丸く柔らかな音、草がさざめく声、ウグイス、波が奏でる艶やかな音色。そしてかすかな潮の香り。これは景色ではない気がする。土地だ。今私はこの土地を感じているのか。ならば、周囲の人工的な音を遮断してみる。そして周囲の人工物を無視する。足下のアスファルトは全て剥がれ去り、人工物のひとつである私も消し去ると、この地にあるのは海、山、そして大気だけとなった。今の私は実体を持たず、ただ見る者として居る。山は無言で佇んでいる。海は私に気づきもしない。不意に海へ飛び込みたい欲求が湧き出た。この風景と、土地を感じて理解したい。もう少しでその片鱗を垣間見ることが出来そうだ。もう少し。そうやって目と耳を閉じて意識を集中させていると、人間の耳障りな声が突き刺さった。数人のグループが喧しく醜く汚らしく踊り、それを撮影していた。何処かに投稿でもするのだろうか。気が滅入ってしまった。腕時計は岬に到着してから1時間経過したと言っている。帰ろう。そう思って頭上を見上げると虹の欠片を見つけた。雨はしばらく降っていないのに不思議なことだ。

虹の欠片(黒丸の内側)

駅前に到着する頃には、すっかり私もあの集団と同じ汚らしい人間になっていた。その後は函館に住む後輩と合流して適当に寿司を食べた。寿司、札幌の勝ち。

3日目。昨日よりはよく眠れた。味気ない朝食を早々に済ませて、今日も自由市場でイカを食べた。函館でイカを食べたいなら自由市場でイカを買い、その場で捌いて貰うのが一番安いのだろう。

イカとホッキ貝

函館山近辺を散策していないので行こうか。そうやって誰もいない市電の駅で一人待っているとなんとなく私自身が町に溶け込んでゆく感覚がする。気のせいだろう。そうしていると風が吹き、雨が降り始めた。雨の岬が見たい。もう頭の中はそれしか考えられなくなった。到着した。海が白い、空も白い、厳しい光景が目の前にあった。立ち枯れた薄と笹が寂しい音をたてている。昨日と同じくウグイスは居るが実に場違いな感じがする。

舞い上がる波の飛沫

強烈な風で波が高く舞っている様子をじっと見てみると、見た目とは裏腹になんだか厳しいという感覚とは異なる何かを感じた。波と波の間は蛍石のように優しく柔らかい色をしている。有機色とでも表現すれば良いのだろうか。昨日の海と比べると、色に関しては今日の方が明らかに生命を感じさせる。

有機色の海

もっと正確に言うなら、海自体が生命たり得ると錯覚してしまうのだ。その視点をもってもう一度海を見ると、明らかに今日の海は生命を感じ、それが私の胸を踊らせた。5分に1度、波が止むときがある。崖下の岩々が波に飲まれず、つかの間の休息に勤しむ静寂。海はまた大きな波を作ろうと深呼吸している。低く、太く、黒く唸る声。いや、この声は私の幻聴ではない。海の向こうから実際に響いている。これが海鳴りか。ますます海が一つの生命のように思えてきた。山はどうなっている?頂上を雲に覆われてこちらを見ることも無い。眠っているようだ。また1時間過ごしていた。強烈な海風に体温を奪われて寒気がする。函館山に行く体力が無くなった。もう適当に歩いて駅前に戻ろう。

生命そのもの

この後は例の有名な坂を見てから北方民族資料館を覗き、喫茶店に到着する頃には既に体力が無くなった。

例の坂 

雨はずっと薄く降り続いている。疲労で意識が飛び、気付いたら雨が止んでいた。西が黄金に輝いている。バスの出発まであと13分。走れば写真を撮ってからバスに乗り込める。無我夢中で走った。

西の黄金

写真を撮り、カメラをしまおうとしたらカップルに写真撮影を頼まれた(カップルかどうかは知らないが)。2人で行く旅はどのようなものなのか。次は誰か誘ってみようか。慌ただしくカメラをしまうと背後で驚く声が聞こえた。虹だ。もうカメラを取り出す時間は無い。スマホで写真を撮ってバスに飛び込んだ。実に良い土産物の風景を貰って帰宅だ。バスの車窓から燃える夕焼けが見える。3分と経たずに夕焼けは青い夜空になった。

土産の虹

 

さて、1人での観光旅行だったわけだが、私の行動原理で観光をすると絶対に人を嫌な意味で巻き込むだろう、ということが分かった。何しろ私は立待岬に合計3時間近く滞在したのだ。誰かと旅行したらこんなことは不可能だ。けれども、この旅行中はずっと一抹の淋しさがあった。つまりトレードオフだ。誰かと旅行する楽しみ、充実感を取るか、それとも1人で思う存分その土地を味わうか。まぁ今回の旅行は思った以上に楽しめたので満足した。次は何処へ行こうか。