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帰省

「まーた痩せて帰ってくるんだからもう」

実家の玄関を開ける時に毎回聞く言葉だ。帰省の回数を数えなくなったのはつまり、今の住処に適応し始めているということ。歴史は無く、学も無い地元。金だけはあるから買い物や移動に事欠かないこの町に、愛着という概念を私は抱いたことがない。帰省の度にビルが取り壊され、新しいビルが生えてくる。変貌を続けるこの町は私にとってよそよそしい。それは私が壁を作っているだけなのかもしれない。町に気を使って、親にも気を使う。帰省とは実に疲れる行為だ。

実家に居心地の悪さを抱くのは珍しいことなのだろうか。私は両親に様々なことを隠している。それは再発した病のことだったり、自身のセクシャリティについてだったり。知られたくないことを抱えながら親が望む息子を演じるのは実にストレスだ。だから私は帰省中なるべく外出している。東京は時間を潰せる場所が幾らでもあるから困ることはない。上野の美術館、葛西の水族館、そこら中にある書店……。地元に知り合いはいないので常に1人で行動している。小学校の記憶は意図的に封印し、忘れた。中高時代の知り合いで未だに連絡を取り合っている者は一人も居ない。大学の友人達が帰省で旧友と会ってきたという話をする度に、普通の人間として交友関係を作ることが出来なかった劣等感をほんの少しだけ抱く。帰省しても会う友人が居ない、そして親には気まずさを感じる。地元にいることが孤独感をより深めてしまう。つまり暇なのだ。

暇に飽かせて実家のTVを何も考えずに眺めていると、世間が普通と考えるシーンをよく見かける。CMで描写される家族というのは皆仲が良く、共通の目的を持って共に行動している。そうして自身の家族について考えてみると、我々という家族が如何に歪なのか否が応でも理解してしまう。別に暴力を振るうだとか、酒に溺れているといった分かりやすい歪みではない。家族全員の視線が同時に交差したことを一度も経験しなかった。私が幼い頃、父親は早くて21時の帰宅だった。父親が夕食に合わせて帰宅出来るようになると、兄が進学で家を出ていった。私は家族で遊んだことが一度も無い。これは当たり前なのだろうか。それぞれが内面に引き籠もる趣味を持っていたので、家族間であれが良いこれが良いといった話はしなかった。会話の内容は大抵するべきことの話し合い、つまり会議だ。両親は職場結婚で、父親が上の立場にいたためか、今でもその関係に上司と部下の影を感じている。数年前、母親は慣れないワインに酔って

「社会貢献として結婚したの」

と口を滑らせたことがあった。父親は結婚するつもりはなかったらしく、兄が生まれてから慌てて普通四輪の免許を取ったと言っていた。おそらく父親はこの職業についていなかったら誰とも交流せずに一生を終えただろう。共通点が存在しないのにここまで両親が離婚しないのは、子供がいるからだ。子は鎹という諺があるが、それは私達に当てはまらない。息子を人質として家族を維持しているのだ。これに兄は早くから気付いていたようで、さっさとこの家を飛び出して今はもう私としか連絡を取っていない。私もこの家族を維持するために聞き分けの良い息子を演じ続けたが、そろそろ限界が近づいてきた。つまりこの家族から離れたいのだ。独立もしていない、寧ろ親の脛を骨の髄までかじり尽くしている私がこんなことを考える資格があるのかというと、無い。けれども私は私の事を考えなければならないし、もう好きにさせて欲しい。

実家には沢山の記憶が残滓となって漂っている。未練とでも言おうか、それらを清算する必要があった。だから私は手始めに、この家の私物を捨てることから始めた。今住んでいる部屋に置けない物を除いて全てを捨てよう。元々私の部屋だった空間には大量の段ボールが積み重なっている。中身を全て確認したら、記憶がこびり付いているガラクタばかりだった。記憶。過去の物には漏れなく当時の記憶が付随している。物を手にとって当時に想いを馳せるのは快楽と表現しても過言では無い。勿論私もそうやって過去を覗き込みたくなる。けれども私にとって過去は全て醜い記憶に埋め尽くされているし、そもそもそうやって物質を媒介としなければ思い出せない記憶など無価値だ。勿体なくも無い。文字通り私は清算しなければならないのだ。幼稚園の頃集めた石、庭にばらまいた。棚を埋め尽くす知育玩具、全てゴミ袋に投げ込んだ。両親が捨てたくないと言った私の図工作品、バレないように細かくしてゴミ袋に突っ込んだ。当時朝7時から家電量販店に並んで買った大量のベイブレード、ゴミ袋に流し込んだ。母親がヒステリックを起こして叩き割ったゲームボーイアドバンス、思い出したくもない記憶を振り払って捨てた。高校の部活で使ったが今はもう押し入れの香りが染みついたインラインスケート、大きめのゴミ袋が必要だった。捨てる。捨てる。捨てる……。目に付く私物は全てゴミ袋に詰め込んだ。残ったのはそれなりに価値がありそうなゲーム機器類がカラーボックス3つ。本が段ボール2つ。そしてピアノが2台。居間には当時のVHSが棚を埋めているが、これらを捨てるには時間が足りなかった。次の帰省の目的としよう。ホコリまみれになって空き部屋をぐるりと見渡す。私の私物は殆ど無くなった。足下には40Lのゴミ袋が4つ。これが20年間ため込んだ記憶の体積だった。

両親は未だに私が病を背負ったものの健全な人間として生きていると思い込んでいる。私のこれからが楽しみ、というよりもそれ以外に楽しみを知らないらしい。人生の大半を親として生きると、そのような考え方が染みついてしまうのか。そういえば、去年父親は孫が楽しみと言った。もう勘弁して欲しい。人を好きになるという概念が理解出来ない私に言う台詞では無い。そもそも、両親は壊れた遺伝子を他人に乗せることに罪悪感は無かったのだろうか。無いだろう。それが出来るのなら今頃離婚している。帰省中両親は私のことを見ていたが、それぞれがお互いを見ることは一度も無かった。

帰省を終えてアパートに戻ると、嗅ぎ慣れない匂いに包まれた。記憶を辿る。そう、この匂いは4年前始めてこの部屋に入って感じた匂いだ。2週間の帰省は私の感覚を実家に再び縛り付けるには充分過ぎた。どうやら生まれ育った家の記憶はそうそう簡単には消えてくれないらしい。呪縛のようだ。そうやって部屋で呆然としていると母親からの着信だ。到着したと報告しないと面倒なことになる。電話を切るタイミングをつかめず、一方的な会話に付き合う。この狭苦しく寒い部屋に私の声だけが反響していた。