Twitterには収まらないうだうだを書く。Twitter:@motose__

感情の17歳

泣いて、笑って、悲しんで。感情は意図しないところから湧き立ち、本人を飽き飽きさせることなく刺激する。

特に人間の17歳は、溢れ出す感情の奔流に翻弄される貴重な時期だ。この時期に感情という感覚に慣れることが出来ないと、私のようにちょっとした悲的感情に打ちひしがれて数日を無駄にする。

私はあの時、何も考えず日々を過ごしていた。そう、大人になる直前の、最も成長した子供の時。不必要に成長する体に精神が見合わず、小学11年生といったほうがお似合いの醜い餓鬼だった。この時に抱えていた感情を捨て去って、「それはそれ、これはこれ」と表面上でもいいから納得できる姿勢を身につけることを当時の私は拒んでいた。昼休みの屋上で見つめた黒い空、雨に煙るグラウンド、誰もいない中庭の桜。私にとっては「17歳の私」がそれらを見られることが幸福を意味していた。16歳はまだ高校生として未熟で、中学生の名残を感じる、青年と表現するには些か幼稚すぎる存在。18歳は現実という壁が否応なしに目の前を塞ぎ、進学のためにひたすらペンを走らせる存在。19歳はそもそも大学生というだらしなさの塊だから、この時を特別と思うことはなかった。というか私は浪人してノイローゼになっていた。だから私にとって17歳は、若々しい感情を最大限発露出来て、現実を見る必要なしに只々美しさに陶酔出来る年齢なのだ。

けれども美しい存在をより美しく感じる17歳は、醜い存在をより醜く感じる17歳でもあった。自身という醜い存在を認めることが出来なかった私は、自身の存在への言及から全力で逃げた。この美しい世界にまさか私のように、醜く劣った存在がいるとは到底許されることではない。自身への悪意は他人へのそれと違って明確な結果を残すことが出来た。美醜関係無しに私はどうしようもなく存在するという事実を受け入れるまでに10年以上を必要とした。

このように17歳の感情は存在そのものを揺るがす劇物にもなり得る。だからこそこのような若々しくも痛々しい感情は価値を持つのだ。17歳から10年以上が経過した今もあの頃の光景を夢で再び見ることがある。午後5時の夕日が全てを哀情の橙に染める時、空っぽの教室に一人佇んで校庭を見る友人に抱いたあの感情。これこそ私が人間に対して求めていた感情だった。この感情をずっと大切に抱きかかえることができるなら、一切の成長を拒む覚悟さえできた。そして、この光景を見ることができる身分にいることを最大の幸福と思い、同時にこの身分が終わりつつある現実を酷く恨んだ。

そうやって夕日に溶ける教室をじっと見つめていた私は、10年経っても未だに現実を見ることが出来ずにいた。人より随分遅れて人生を進めていると、かつての友人が働き、家庭を持ったという知らせが来る。未だにモラトリアムを続けて17歳の時に得た感情を反芻しているこの私と同じ時間を生きて健全に成長した人間は、既に自身の欲求よりも大切な存在を見つけている。そんな時に私は、自身が持つ17歳の感情を邪魔と感じてしまうのだ。それは全く間違っていない。正解であり、あの頃の感情を捨てて現実を見るのが社会に生きる人間にとって当たり前なのだ。この感情を捨てずにいるのは悪なのか?これは私が社会人になっていないから、そして何者かの為に生きるという行為を未だ経験していないから感じる負い目なのだろうか。そうだ。きっとそうに決まっている。だから社会人になるまではこの感情を捨てる理由がない。今は捨てる時ではない。この感情を離さずにいるつもりだ。

 

私がこうやって17歳に固執する理由はとある本が強く影響している。私の大切な本。私を形作る数冊のうちの一つだ。こんな所で題名を述べることは到底出来ない。