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認める

人間を認める。言葉で表現するだけならば実に容易だ。ではそれをどのようにして行動で実践する?そもそも「人間を認める」ことをどのように定義する?私とっての答えを探ってゆく。

 

目の前に人間がいる。この人間Aが私にとって見知った人間であると仮定しよう。私はAについてある程度のことを知っているかもしれない。人相、声、所属、好み…。私は目の前の人間について様々なことを思い起こし、それぞれが齟齬を生むことなく結合してAを形作るのを確認する。そして目の前に他ならぬAがいることに安心する。つまり私がAをAと判断するのは、Aに関する情報を私が持っているからであり、そもそも私が情報を持たない人間Bが目の前にいても、私にはBが誰であるか全く分からない。私にとっては情報が人間を構成しているので、こうやって実に面倒な手続きを経由して人間を確認している。そう、確認している。

私にとって人間の確認と人間の認識(上記の「人間を認める」に等しい)はそもそもの性質が異なる。異なると判断する根拠は私の直感という誠に信用ならないものであるが、この直感は私の脳から剥がし去ることが出来ない。情報はあくまで事実であり、文章で「Aは〇〇だ。」と表現できる。一方で存在の認識はこれに感情が加わる。私がAに対してどのような感情を持っているか、これが加わることで初めてAは私にとっての二人称的存在、つまり「あなたは〇〇」という存在になる。Bの情報のみが私に与えられたら、Bは私にとって三人称的存在になる。Bの充分な情報と感情が私に与えられたら「あなたは〇〇」と私は言うだろう。つまり私にとって人間の確認は情報を必要とし、人間の認識にはそれに加えて感情を必要としている。そうやって私は二人称と三人称の存在を扱っている。

 

二人称と三人称。これらの言葉が行き着く先は何処にあるのか。そう、一人称。私は他ならぬ私をどうやって認識しているのか。

実践してみよう。まずは存在を確認するために事実を列挙する。「私は〇〇歳である」、「私は〇〇に住んでいる」、「私は〇〇に所属している」…。なるほど、私以外の存在から見てもそうであると判断できる事実の集合ならば、私にも挙げることが出来る。けれども他人に判断できない性質「私は〇〇である」を挙げた時、私はそこで立ち止まってしまった。私が私を偏見無く判断することが出来るか?二人称、三人称の存在ならば無責任な判断を下すことも出来る。しかし私は自身に責任のある判断を下す必要がある。やってみせよう。やってみせよう。けれども尽きることのない疑念は、自身を寸分の狂い無く判断することを不可能にした。私は私を確認するために様々な情報を提示する必要がある。けれどもその情報全てが真実であるはずがなく、つまるところ私は虚偽の情報で構成されているという事実を理解しなければならなくなるのだ。更に恐ろしいことに、この嘘は何処に潜んでいるのか全く分からない。この情報は?あの情報は?もしかしたらこの情報は嘘?私はそうやって疑心暗鬼に陥り、私が信じられなくなる。そして私は自身を「確認」することが出来ないと絶望するのだ。

絶望だけでは足りない。まだ私が私を「認識」する行為がまだ残っている。つまり、私が私に感情を向ける必要が生じたのだ。この苦しみが健常者に理解出来るか。私は、「私が私である」ことに強い殺意を感じ、けれども「私が私である」と断言できる強固な真実を追い求めてきた。私は私に向き合う度、腕にナイフを突き刺してはこの殺意に気付かないふりをしてきた。私が私に感情を向けようとしても、それは殺意のみで構成されているが故に、私は私に感情を向ける度に私を殺す恐怖に駆られる。私は殺す側で、私は殺される側で。

 

自身の存在を確認しようとすればするほど、私は嘘だらけであると気付いてしまう。自身の存在を認識しようとすればするほど、私は死の恐怖にとりつかれる。ならばこうすれば良い。私は私を確認せず、認識しない。自身の事を知らなくても、理解しなくてもとりあえず私は存在する。

実存主義のように、まず存在する私に本質を与えるような行為はしない。空箱の私は中身を埋めることなく白痴のように生きる。考えすぎるのは疲れた。