Twitterには収まらないうだうだを書く。Twitter:@motose__

近況_20240504

来週復職することが決まりました。人間とのコミュニケーションを思い出すためのリハビリにお付き合いください。頭の中にあるものを吐き出すだけなので、今回の文章に何ら意味はありません。

 

私を休職せしめた現場への復職を拒否した結果、若干遠いけれども静かな現場に配属されることになりました。体調の報告等面談でのことはある程度記憶に残っていますが、人事に言われたことが記憶からへばりついて離れません。

「君の話し方はとても理論的だから報告される俺としてはとても助かるよ。けど会話の練習が少し必要そうだね。」

確かに、私は他人と会話するよりも、自らの思考に沈むことの方が圧倒的に多い生物です。よって一般的人間と比べたら会話の経験値は少ない部類なのだろうと思われます。そもそも、人間と会話できる、つまり他者に共感してコミュニケーションの喜びを感じ取れるならこのように文章で己を吐き出す理由がありません。一般人、いいえ、健常者と強めに表現しても構わないのかもしれませんが、私は他人に共感することが苦手なようです。それは死に損なってきた今までの過程が他者と共有できない代物であるからなのか、それとも共感する能力に不備があるのか。恐らくその両方が私をこのように、現実世界の人間達からすれば「宇宙人」たらしめているのかもしれません。何故でしょう。何故他人の悲しみが私に伝播しないのか。何故私の内側で湧き上がるこのもやもやとした感情が、他人には理解されないのか。その理由を私は求めています。問いが存在するのならば、その解は必ず存在する。これは暴論であり、「何故?」に応える声は大抵返ってこないものですが、私がこのようにコミュニケーション不能者である理由を探すのは理に適っている行為だと思わずにはいられません。私がこんなにも劣っていることに理由が無いとしたら、これは単なる一つの事象に過ぎず、たまたま理由もなく生まれてしまった失敗作はさっさと自殺でもして事を収めるのが道理です。けれども私は首の筋肉が意外にも硬い事を知ったし、無味の液体は本当に何も味覚を刺激しないことも知っています。地面から生えたマリア像が私を手招きしたこともありました。勿論これらの行為が失敗に終わったのは私の弱さ故、私が強かったらすでに私は存在しません。弱いからこうやって死ぬこともできず、弱さの理由を探し求めています。世の中に数え切れないほど存在するだろう、私のように弱い人間達はこの苦しみにどうやって見切りをつけて生きているのでしょうか。

人事にそのようなことを言われてから、私は町へ行く度に人間の会話を注意深く聞くようになりました。町のそこかしこにいる普通の人間が、どのような会話をしているのかを聞いてサンプルを多く手に入れる。サンプルが足りないまま練習するのは不可能です。そうやって様々な会話を盗み聞きして得た結果は私にとっては意外なものでした。会話に起承転結や意見を組み込むことは必須ではなく、寧ろそのような要素が含まれる会話は少ないこと。会話はあくまで口語でのコミュニケーションあるために、文構造が破綻していても問題がないこと。普通の人間は口語と文語を切り替えることが可能であること。これらのことは私にとって実に新しい視点を与えました。加えて、私が口語と文語の境界を判別できず、どちらかといえば文語を優先して発声している可能性にも気付きました。サンプル収集の結果、実に価値ある結果を得られましたが、さて、これを糧に私はどのように会話を練習すれば良いのでしょうか。

 

私は風が嫌いです。風にもいくつか種類がありますが、私が最も嫌う風は心地よい陽気をぶち壊しにする下品で不規則的な風です。それがそこら中を駆け回っているのが今、4月なのです。今私が住むこの地は年中この下品極まりない風が私を嘲笑っています。常に全方向から殴りかかってくるし、そのうえ喧しい。どの天気にもそれぞれの美しさがあるのに、何故こうも風だけは私を不快にするのでしょう。雨の音、雪の音、虫の音は私の耳にすっと入ってゆく感じがするのに、風だけはいつも無遠慮に耳を通り越して直接頭の中を叩きまわる。ここまで書いて今更のことですが、風は天気の一つに分類されるのでしょうか。天気予報では晴れ曇り雨雪から独立して風の情報があることから、そもそも風は天気として分類されないのかもしれません。今「風 天気ではない」と入力してブラウザ検索しましたが、私の言葉足らずな語彙力では答えを見つけることが不可能でした。兎にも角にも、私は風が嫌いなのです。

 

勝手に湧き上がることをこうやって吐き出していたら一時間が経過しました。少し疲れたようです。年度の始まりで貴方も体調を崩してはいませんか。休んで、食べて、眠ってください。