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近況_20230704

新社会人の生活は存外忙しいもので、気がついたら春が終わっていました。今年の冬は暖かく、うららかな春を期待していた私に吹きすさぶのは、下品で角ばった風。灰色の春を過ごしましたが、植物はこのような寂しい春でも開花の機を違わず咲き、今年もライラックを眺めることができました。お久しぶりで御座います。

 

10年近く身に纏っていた学生という身分を漸く捨て去りました。何か自意識に変調が現れるのかと思いきや、そんなものは全く訪れる気配がありません。私の周囲を観察してみると、社会人になりたての人間は皆何かしらの光に向かって歩いているように思えます。未来に肯定的な意志を抱き、そうやって日々努力を重ねている存在を前にすると、敗残兵として社会人を始めた自身の意識がどうしようもなく軽薄で軟弱なことに気づいてしまうのです。私に未来は無い、後ろにはヘドロが溜まった沼、今立ち尽くしているこの場所はとても不安定で、少しでも風が吹けば真っ逆さまに落とされる。環境の変化によって自身の価値観がすぐさま変わるとは思っておりませんが、それでも変化の兆しを何処かに認めるはずです。けれども、その気配が私には感じられません。この先私の意識が更新されるとは信じ難く、この不安定な今を維持することに必死な私は、この世に存在する理由を見いだせません。何度か死に損なった故に、どのような思考を経てもそのような結果に行き着くことに途轍もない気色悪さを感じ取る私に、先にあるだろう光を見つけることはできるのでしょうか。私は何をすべきなのでしょうか。

ついこの前、友人にこのようなことを指摘されました。「4月の時と比べて、明らかに会話が成立しなくなっている」と。環境の変化による疲弊が生返事や曖昧な返答を生み出しているのは事実ですが、その度合があまりにも酷く、彼は心配してしまったそうです。釈明の余地は一切御座いませんが、私がこのように更なる無知蒙昧になりつつあるのは疲労や環境の変化以外にも大きな理由が存在するのです。それはとても単純で、とても厳しいこと、それは「私が何者なの」かという疑問です。私は何をしていて、どんな私で、何を表現して、何を食べて、何処を歩いて、何を目的として、どうやって死ぬのか。これらの事柄は言うまでもなく私を形作る概念ですが、この数ヶ月でこれらが全て砂のように消え失せた感覚がしていて、つまりは私にとって私が全くの不可解な存在になっています。「私は何者なのだろうか」と一度思考が始まると、周囲の音は消え失せ、光も失われ、無音の暗闇に放り込まれることで周囲の情報を一切受け取ることが不可能になるのです。これが昼夜を問わず私に襲いかかるために、生返事が増えているのだろうと推測しています。この疑問、靄をなんとかしようと腕を振っても消えることはなく、思考の大部分をこの靄に支配されているので会話は成立せず、自身が何を言ったかも理解できず、他人の話が聞き取れず、上の空で茶碗を割る。働き始めた為に、何を考えずとも死ぬことはなくなった。加えて今までの私を支えていた概念が皆消え失せた。白痴になりつつある私でも解決方法は理解しています。思考し続けること、そして目的を見つけること。上述した光を見つけることが私にとって喫緊の課題なのですが、そのようなものは一体何処にあるのだろう。

貴方は札幌の夏をご存知でしょうか。此処の夏を乱暴に表現すると、「水の気配がしない湖畔」です。夜勤明けに手稲山を見ながら帰宅すると、その意味がよくよく理解できます。朝方の空は毒にも薬にもならない青で、夏の強さを感じない陽光が山肌を柔らかい緑に染めています。時たま被さる雲で、山の所々がより深い緑に染まることはあれど、あくまで山は穏やかに、心なしか無気力に横たわる。関東で見るそれのようにギラついて、葉の輪郭を浮き出す陽光も無く、形を捉えがたい、なんとも引き締まらない気候です。私はもっと威力が高い夏を欲します。休暇を取って何処か暑いところへ行きたい気分です。

 

もっと書き記すべきことはあるはずなのに、酒を飲んでJ.S.Bachの無伴奏チェロ組曲第6番第5曲を聞いていたら何もかも忘れてしまいました。そちらは暑くなることでしょう。体調にはお気をつけて。