Twitterには収まらないうだうだを書く。Twitter:@motose__

近況_20260427

未達のノルマを無理やり達成させるためでしょうか。管理が下手くそ極まりない今年の天候管理者は、土日に限って雪を落としていくようです。まだ雪が溶けていなかった3月の半ば、真夜中に降った雪が枯れた街路樹の枝に実っていました。風のない朝日を浴び、熱を持った雪は音もなく枝から落実し、内部で反射した光を投げかける。天頂まで抜ける青空の下、真っ白な綿雪が朝日で虹色にきらめきながら落ちて、泥の中に消えるのを見て、誰かが身投げをした幻覚に吐き気を催しました。地下鉄に乗ってその光景を反芻すればするほど、己の壊滅的な感性に失望していたのです。

 

さて、去年までの不規則で死んでいた生活から一転、現在は毎日朝にスーツに着られてビル街へ出勤し、夕方には街の灯りをぼんやり眺めながら帰宅しています。そして毎週2連休を与えられています。これがいずれ当たり前の生活になるのでしょうか。相変わらず寝袋で夜を明かす生活から脱出できてはいないのですが。

そういえば就活の時、初めてスーツ姿で電車に乗った自分に私は「世間に受け入れられている」と、全く馬鹿げた認識をしていました。およそ健常者とは表現できない身体と精神、それらはスーツという世間に一般化された布で覆い隠せると思っていたのです。けれど、貴方もよく分かるように、4月に初めてスーツで出勤する元学生の雰囲気は遠目でも容易に気付けるものです。おそらく、あの頃の私も同様にそういったある種の空気をまとっていたのかもしれません。

まだ私もこの服を来て3か月ほどの通勤ですが、この服にはそれほどの特別感があるのだろうか、という疑問を抱き始めています。この服は、いわゆる病院内のスクラブやケーシーと同義。院内でスクラブを来た人間が走り回っていても何も思われず、同様に朝の電車や昼の街をこの服で歩いていても不審ではない。私はスーツという存在に何かしら特別な意味を抱いていたようですが、その認識が今崩れ始めています。確かに、この服は首元がきつく、面倒なネクタイ、肩がこるジャケット。毎日着ていておよそ快適な服ではないようです。

そして、中途半端な体型がこの服を着ると、とても似合っているとはいえない惨めな風体が完成します。つまり、去年までの私は着替えやすさを最優先にした結果、作業服のようではあるがとりあえず似合わないわけではない服装だったのに、今は毎日その辺りの人から笑われるようなちんけな格好で歩いているのです。この恥ずかしさに慣れるのはいつ頃になるのでしょうか。それとも一生服装で笑われるままなのでしょうか。

 

引っ越しが済んで早くも3か月が経ちました。旧居よりも静かな暮らしを期待していましたが、どうやらこの部屋はとんでもなく壁が薄いようです。隣部屋の欠伸が6時半。上階の引き戸の音が7時。これは毎日の目覚まし代わりになっています。実家で暮らしていた頃散々聞いた階段を上がる母親の足音や、隣の部屋で眠る父親のいびきを思い出します。救急車やバスのエンジン音には過剰な反応を示す私ですが、不思議と屋内で人間がたてる音には全く何も感じないのです。寧ろ今この部屋で一番私を不愉快にさせている音は人間のそれではなく、冷蔵庫の唸り声です。買って8年にはなる冷蔵庫でしょうか、使い始めて間もない頃に地震で冷凍ものを全て溶かし、精神をおかしくした私の殴った跡が幾つも残る冷蔵庫は、今日も元気に耳を塞ぎたくなるがなり声をあげています。

さっさと壊れてしまえばいいのに、私のように只々周囲を不快にさせる存在に仕える必要もないのに、どうしてここまでずっと働き続けるのだろう。もちろん物には感情も精神も何もない。このような感慨を抱くのは私が異常者である故のことです。おかしいのは私の方だった。全く死にたくなります。

そうやって再び私は静かな場所を探し始めました。春になっていつもの峠がオープンしたので、早速静寂を求めに行きました。其処は無音という意味の静寂はなかったけれど、上空に消えていく街の音、山が抱える様々な無音、そして人間的な音を一切排除した私だけの空間がありました。春特有の居心地悪そうな積雲が連なり、向こうにはまだ真っ白な夕張の峰が見えます。この空間を支配する無音が心地よく、しばらくその場でじっとする。日々人間と会話するのはやはり私にとって過酷な行為で、こうやって人間がいない静かな場所でじっとしているのが一番落ち着く。

 私が知っている静かな場所は他にもあります。それは近所の河原だったり、寿都の海岸だったり、モエレのピラミッドだったり。ついこの前、南幌の展望台に行きました。あの峠と同じく周りに誰も人間がいない、そして昼の陽射しが降らない階段の踊り場は周囲の音を艷やかに反響させ、私を喧騒から匿う雰囲気を持っていました。誰もいない階段の踊り場で、しばらく立ち尽くす。そのような行為が許されることが私には心地良く感じられて、誰かの気配が漂ってこなかったらずっとその場に居たような気さえします。

 静寂の中に沈みたいくせに、孤独を恐れて。誰かの喧騒を求めては、己の醜さを突きつけられる。そうして逃げたくなって、また静かな場所を追い求めている。一連の行為が私にとっては大切な何かを意味しているようにも思えるけれど、少し離れてそのループを見ると、いかにそれらが愚かで惨めであるか否応なく理解してしまう。私にとって喧騒は光が降り注ぐ救いの空間で、静寂は影に沈んだ罪の空間のような、罪であるのにどこか優しくてしっとりとした何かを漂わせているようです。

 

 先日主治医にこのようなことを言いました。「以前感じていた、起床時の全身の痛みは薄れた。耳栓をつけずに地下鉄に乗る努力を始めた。感情の振れ幅がある程度大きくなった」と。3月、実験的に服薬を中止し、様子を見ることにしていました。もともと軽い抗不安薬を飲んでいただけなので、服薬の中止は身体や精神になんの影響も及ぼさなかったようです。この2か月ほどの成果を主治医は前進と認識し、あっさりと治療は終了、私は再び寛解の身となりました。

思い返すと、この10年間で服薬を中止していたのは学生だった時の1年間だけで、それ以外はいつも何かしらの外圧であの悪癖に悩まされた、若しくは救われていました。さて、再び私は何も飲まず、何も治療せず、宙ぶらりんの存在になりました。劣等者の再来です。いいえ、劣等者の私はずっと其処にいたけれど、狂人であり、かつ病人の私が肥大化してその影に隠れていたのでしょう。狂人の私は、頭の奥底で暴れまわる塵をひたすらに書いていれば良かった。病人の私は、自身のくだらない運命を呪って星を見ていれば良かった。では、今の私は。劣等者の私が「良い」と言える為には何が必要なのでしょうか。今更健常人と同じ振る舞いを習得することはできません。かといって狂気をまとって空っぽのピエロを演じる気概もない。狂気を「俺」と呼び、病気を「僕」と呼ぶならば、中途半端な所属しか許されない劣等は「私」と呼称されるのが摂理のようにも思えます。事実、私は「俺」や「僕」を使った記憶はもう過去の彼方に捨て置かれています。そう、私は「私」という一人称を得たその時に劣等者となり、それからずっと劣等者であり続けたのでしょう。これまでも、そしてこれからも。

 劣等者に期待することなど何もありません。生きている者、それらは大抵他人に、そして自身に勝手な期待を寄せて、そして勝手に失望しています。だから、私には何も期待しないでください。無論私に期待している者は誰もいませんが。同様に私も、自身に一切の期待をしません。これまでの道を振り返ると、いかに私が馬鹿馬鹿しい恥を晒してこの場所にいるのか深く理解する。真面目にいるだけ無駄です。

 

ライラックが開花を迎えそうです。街にあふれていた泥と砂は、風に飛ばされて消えました。そろそろ花の季節が始まります。

逃げたのか

東京の冬は乾燥が酷く、舞う埃が目と喉を痛めつけるのが常だった。それでも、あの東京の冬を今でも懐かしいというか、嫌な感じを抱かずに思い出せるのは、青空が見えたからだろう。雪と風が収まることのない冬を経験し続けると、私は天に抜けるあの空を渇望し始めていた。

 

冬は文字通り、閉じ込められる季節。朝起きて外を見ると、昨日の雪かきはなかったことにされていた。駅までの道のりは真っ白で、足元は光が乱反射してよく見えない。職場から中堅のスタッフが消え、私が懇切丁寧に指導した新人は仕事中のミスを積み重ね消えた。余裕のない現場ではスタッフ皆が目の下を黒くしながら働いている。私もその一人で、先が見えない転職活動と減ることのない夜勤が確実に精神を蝕んでいた。ピッチの音が恐ろしく、機器のエラー音に怯え、換気扇の唸り声が怖かった。

夜中、外は吹雪いている。仮眠と表現することすらできない微睡みは運び込まれた救急で振り払われた。一仕事終えたがもう眠れないだろう。揺れる頭を叩きながらソファに倒れ込み、備え付けのテレビをつけた。画面の中で、人間になった太陽の塔が夕焼けの中に経っていた。室内の機器達が放つ轟音で曲はうまく聞き取れないけれど、弦楽器の深く震える音、静かな森にたゆたう湖を思わせる雰囲気がかすかに感じられた。人間は夕焼けを背に何も言わず、ビル屋上の観覧車をつついて、揺れるゴンドラに驚いていた。場面は変わり、人間は小さく座ったまま釣り竿の先を見つめていた。空が青く、水面は動こうとしない。しばらく私は画面から目を離せなかった。夜中に叩き起こされ、今更になって喉の乾きを感じて冷蔵庫から水筒を取り出し、手が滑って机に落とした。舌打ちしながら蓋を開けようとした時、中の水に細かな結晶が生まれ始めた。過冷却だ。水筒の中で結晶は成長し、交わり、つながり、広がる。平面の結晶が幾重にもすれ違い、複雑で美しい空間の先で蛍光灯の光が揺れた。涙が出た。悲しいとか、悔しいとか、涙を流すきっかけとなる感情はどこにもないはずなのに、それを止めることもできず私は画面の人間を見ながら泣き続けた。

もう此処には長く居られない。そう思って転職活動に熱を入れたが、未経験の職種は尽く書類選考で弾かれ、なんとかたどり着いた面接はすぐに不採用のメールが送られた。そんな中、やけになって応募した企業の一つから返事が来た。文章を送れと書かれていて、幾つかの問いが添えられていた。夜勤続きで人間的な思考を失っていたが、これを逃したらもう後がない。もう一度首を切ることになるという脅迫的な幻覚に背中を押され、書いて一日寝かせてもいない文章を送った。そこから何故か最終の面接が始まり、役員達による一時間の質問攻めで完全に精神を壊された。面接後そのまま仕事に行き、この先どうやって死ぬのだろうかと形にならない考えを練りながら日勤を終わらせた。その日の帰り、電話が来た。採用されたらしい。

兎にも角にも、私は休みたかった。ベッドで眠り、朝に起きる生活を手に入れたかった。最後の出勤後も休むことだけ考えていた。しかし引っ越しの作業に追われ、休む暇もなかった。大急ぎで家のガラクタを詰め込み、吹雪に笑われながら大急ぎで運んだ。全ての荷物を移し終えたのは勤務開始の五日前。空になった旧居は不自然な広さを持っていた。手を叩くと音が反響し、此処で生活した数年が幻のように湧いてくる。大学へ入学して以来この部屋は大学へ通う馬鹿共のたまり場になり、毎週のように誰かが来ていたはずなのに、その欠片すら見つかりそうにない。色彩失った部屋はただ虚しく、空間に跳ね返る音は一層私が一人であることを強く自覚させる。学生生活がようやく終わったような気がした。

 

そうして私は新居に移り、夜勤をすることもなく毎週二連休がある社会生活を初めて経験している。数年かけて破壊された生活習慣は容易に直せるものではなく、月に数回ベッドで眠るのが精一杯。けれども、毎週決まった日に洗濯や掃除ができる、呼び出しに怯えながら家で休む必要もなく、今のところ平穏な暮らしに触れつつある。都合の良い解釈をするなら、この生活は人生の新しい局面とも言えよう。しかし私の頭にはこの一言がずっと消えずにいる。

「逃げた」

受験から逃げ、大学から逃げ、大学院から逃げ、そして社会人から逃げた。宿痾を言い訳にこの体たらくを笑うことは、不可能ではないだろう。けれども私が病を抱えていることはこの逃走になんら関係なく、結局は全て私の劣等が招いた結果なのだろうか。そうだ。どれだけ努力しようとも、どれだけ希望を持とうとも、私の劣等は其処に存在する。その先に光が見えることはない。

 

災害とも表現された雪は季節外れの暴力的な天候で泥に溶けていった。街中に砂埃が吹き、目が痒くなる。似合わないスーツに似合わないネクタイ、似合わない髪型を纏う私は、鏡で見る度言いようもない幼さと気色悪さを滲ませている。三十路を過ぎた今、全てが止まってしまったと感じる今、私に何ができるのだろうか。春は近づいているけれども、相変わらず北海道の空は鉛色に沈んでいる。空を求めるには、この街は狭すぎる。

言葉による足掻き

白昼夢は真夏の昼間、全身を焼く陽射しと陽炎が作り出す現象だと思う。一方で、雪と風に閉ざされた地では真冬に似たような光景を私に見せつける。弱々しい陽射しが凍った地面に乱反射し、前後の認識が失われて足が竦む。白昼夢ではなく、只々単純な感覚の失念と表現すれば良いのだろうか。真夏の白昼夢は黒い日陰を見ることで現実世界の感覚を取り戻せるが、冬の感覚失念は長い間身体の中に染み込み続ける。視覚を奪われ、あらゆる方向から吹き付ける風に耐えながら滑る地面を見つめて歩くと、そのまま白い世界の中に取り込まれて二度と戻ってこられなくなる錯覚を抱き始めるのだ。それでも冬の日中はまだ良い方で、夜が訪れると白い世界の誘いはより苛烈で狂った色になる。月が天頂にあるはずの空は厚く灰色の雲に覆われ、周囲はナトリウム灯の橙色が雪に弾かれて異様な雰囲気を纏い、風に打たれながら煙草を吸っていると眼の前を救急車がけたたましい音を撒き散らして走り、サイレンの光が街を表現しがたい色へ塗りつぶしていった。白く、そして橙や赤に染まった夜の中で、山から吹き下ろす風で雪が弧を描きながら踊っている。星や月も見えず、静寂とは程遠いこの光景を狂っていると書く以外にどうやって表現できるのだろうか。

 

そうやって冬の中に幻覚を見ながらしばらく過ごしていた。いつの間にか夏と秋は消え失せ、無理なスケジュールで仕事に追われていると知らず知らずのうちに自身の頭から言葉を引っ張り出すことができなくなっていた。頭が壊れたわけではない。元々壊れた頭でも、その中に埋もれている言葉はいくらでも掘り出すことができた。今の私は二日酔いに苛まれるあの感覚がずっと続いている。脳の奥底が溶融して、埋まっている言葉も巻き込んで地面が泥のように溶け始めている。そのような頭でも兎に角言葉をひねり出さないと、このままでは痴呆に陥ったもの同然になってしまう。その危機感だけは理解できた。だから此処に書くのだ。以下続くことは私がただ只管に泥の中から溶けかけた言葉を、どうにかして拾い、どうにかして文章にするだけの行為。本当にそれだけ。

 

夏の記憶を思い出そうとした。どこだ、思い出せない。けれども、その頃からサイレンに身体が勝手に反応し始めたことだけははっきりと覚えている。私はこの夏に何をしていたのだろうか。夏の陽射しを浴びただろうか。いいや、この大地から出る余裕がなかったから浴びていない。黒い陰の中にこの身を置いただろうか。いいや、思い出されるのは職場の青白い蛍光灯、そして薄暗い待合室。蝉を聞いただろうか、ああ、聞いた。そうだ、初めて大地の蝉を聞いたのだった。きっかけは友人の誘いだった。コストコに行くからついでに何処かへ行こうと呼ばれて早朝に合流した。そのまま車は石狩を通り越し噴火湾を左手に友人は走り続けた。友人も前日の疲労が抜けきっていないようで、時折センターラインはみ出しのアラートを作動させていた。山の中を走り、気が付けば寿都に到着していた。大地の日本海側には当時鰊によって財を成した者達の御殿が数多く残っている。その一つがこの寿都にもあり、それが見たくて友人は此処まで運転してきたのだった。えぐれた地形に入り込んだ海は夏の柔らかく弱い陽射しにたゆたい、湾の入口には一つ船が見えた。海を挟んだ向こうには山を駆け上がる草原が広がり、幾つもの風力発電機が呑気に羽を広げていた。そしてこの地に蝉がいた。既に秋も近かったからかアブラゼミの他にはツクツクボウシも聞こえた。蝉時雨は文字通り乾いた砂に染み込む雨であり、その雨は私の乾ききった何かを確かに潤していた。

そういえば六月にも長野の山中で蝉を聞いた。今年の夏は例年より蝉を聞いたのかもしれない。帰り際に立ち寄った赤井川でもそれ以上の蝉時雨を身に受けることができた。あとはヒグラシを聞けたら良いのだが、そもそもヒグラシはこの気候に耐えきれず、南方の端まで行かなければ聞くことはできないらしい。それでも、この日に聞いた蝉は未だにどうにか思い出せる記憶にはなっているようだった。

秋。何も思い出せない。退職を伝えたこと、寝袋と職場の床で殆どの睡眠を費やしたこと。教育していた新人が消えたこと。それくらいか。

冬。書類選考に落ち続け、書類を通過した数少ない選考も面接で容赦なく落とされる日々が続いた。面接の下準備を行おうにも夜勤と過密なシフトで溶け落ちた脳には何も考えることができず、無為な日々が続いた。雪も積もらず、気まぐれの吹雪が作った積雪も根雪とはならず、季節外れの雨が雪を汚らしく崩していった。歩道には泥水が張り、ぬるく埃っぽい風が吹き付けている。そんな中で全てが嫌になり、投げやりな気持ちで応募した企業から書類通過の通知が届き、いつの間にか事が進んでしまった。何の因果だろうか、文を書いて食い扶持を繋ぐことになってしまった。この溶けた頭ではそれに対する感慨も理解も及ばず、今の私は何も考えることができない。新しい世界が開いた、と表現すれば良い事であるとも判断できるが、少なくとも今の私にとっては未知への恐怖が気持ちの殆どを占めている。どうにもならない。私が何を思考し、どのように行動しても私自身の事態はもう一切好転しないのだろう。

 

自身の病についてまた考えてしまっている。十代の半ばから背後に佇むこの影は、いつの間にか人生の半分以上もそこに居座っている。常に少量の薬が手放せず、わめき続ける頭の中が自身にとっての通常となった今では、いわゆる健常者の頭に存在するらしい静寂という観念を根本から理解できなくなっていた。私の頭には常に様々な人間が喧々囂々口角の泡を散らし、今までに聞いた曲と無数の映像が流れ、過去の怨恨後悔侮蔑が刃物となって私に刺さる。けれどもそのような心象的騒音、そして三回の未遂や消え失せることのない衝動と傷痕を身に刻みながらもこうしてどうにか死なずにいる。その価値は一体どれほどのものになるのだろうか。端から見れば宿痾を前にそれでも生きる姿勢を評価されるのだろうか。もちろんそんな事あるはずもない。寧ろ今までの私は後ろ指を指されることが殆どだった。では何故それらの要素が四回目、もしくは最終回に繋がらなかったのだろうか。私にもその答えは分からない。それは今までに読み漁った本かもしれない。今までに知り合った誰かかもしれない。今までに聞いた楽曲かもしれない。それこそ、私が今浸っているこの環境ゆえなのかもしれない。私がこうして死に損なっているのは結局周囲の環境が他人よりも恵まれていたからに過ぎないのだろう。そうでなければ精神を冒された時に読書という逃げ道を見つけることもできず、そうでなければ大学を中退した時点で再受験の選択肢すら与えられず、そうでなければ大学院を中退した時の就職先も見つからず、そうでなければ今の仕事を辞めてもその先は見つからずそのまま終わりを迎えていた。秋に死んだ祖母のように。環境が私をこうやって生かし続けたというのならば、私自身の力では結局何も成し遂げることができなかったと断言しても構わないのだろう。そういえば、いつだったか私は自身のことを劣等者と表現していた。そう、私は劣等者なのだ。周囲の環境によって死なずにいられただけの劣等者だったのだ。劣等者。良い響きではないか。そうやって死ぬまで自己を蔑み、その憐憫に酔いしれることが私にはお似合いなのだろう。

 

また救急車が傍を通り過ぎていった。この半年で読み終えた本は数冊だった。時間の余裕が無く、精神的な余裕も無く、文章を読もうにも文が滑るあの感覚を数年ぶり味わっていた。窓の外はだらしない寒さが続き、珈琲と煙草が手放せなくなっている。幸いこの先しばらくは空白の期間となる。休もう。そしてどこかに行って、カーテン越しの陽射しを眺める静かな朝を迎えたい。

 

【読み終えた本】

日本三文オペラ(開高健 新潮文庫)

近況_20251015

前例のない暑さが続き、漸くこの地にも永く夢見たあの巨大な雲を見た気がするのです。残念ながらそれはただの幻視でした。雲がいない、蝉もいない。空っぽのような夏を過ごし、じわりじわりと深まる秋をどうにかして感じようと努めていたのに、秋半ばになっても冷房を強いられるとは全く思わず。「こんな夏を過ごしたことはなかった」と毎年毎年愚痴るようになりました。

仕事上のトラブルで、職場と家の往復を続ける夏でした。気がつけば味覚が消え失せ、家の前を大型車は救急車が通るたび拳を叩きつけずにはいられず、強力な耳栓をつけても頭蓋へ突き刺さる周囲の騒音が私をより深く狂わせようとしています。この数ヶ月、様々に考え、それを文章に書き留めようとしてもいざ紙を前にすると動悸が止まらない。仕方なく手近なメモ用紙に思考の断片を書き残す日々が続いています。更には、自身でも書いた記憶のないものが存在している始末。疲労で何もかもを忘れ去っている毎日が続いているようです。

私は元来人間とのコミュニケーション機会が乏しく、新しい関係性を築くことは一年に一回あれば多い方なのです。その私がこの数ヶ月で様々な出会いや別れを経験してしまい、身体が少々疲れているのでしょうか。何かを考えようとしているのに、思考の欠片がそのまま周囲からこぼれ落ちてゆく様子をどうにもならない気持ちで見つめ続けている。

やめておきましょう。今こうやって文章を書いている場合ではなさそうです。何を書き出すか私にもわからない。

 

秋も半ばになってしまいました。今年の冬は厳しいものになりそうです。

 

【読み終えた本】

O・ヘンリー ニューヨーク小説集 青山南+戸山翻訳農場訳(ちくま文庫)

掌の小説(川端康成 新潮文庫)

海のかなたの永遠(立松和平 福武書店)

格闘する者に○(三浦しをん 新潮文庫)

開口閉口(開高健 新潮文庫)

西の魔女が死んだ(梨木香歩 新潮文庫)

仮面の告白(三島由紀夫 新潮文庫)

長野、面会

松本の盆地

~6/4

夜勤明けの日、滅多に連絡をしない母方の祖母が私に電話をかけてきた。15年程前、心臓へ人工弁を取り付けた時に

「ばあちゃんな、胸にヘルスメーター入れただ」

と真顔で言った祖母だ。元から少しボケていたが、いわゆる認知症に関連付けられるような記憶や機能障害とは全く縁がない。電話の理由が分からず、私は祖母の話に眠たい頭で相槌を打っていた。95歳を越えると流石に話題が飛び飛びになるが、それでも祖母は40分間ずっと話し続けた。思い出したかのように私の近況を聞き、社会人にもなって未だ結婚していないことにしばし愚痴をこぼした祖母は

「じゃあね、さよなら」

と言って唐突に電話を切った。その言葉が意味することを理解するのに少し時間が掛かった。

祖母は別れの挨拶をするために電話をしたのだろうか。眼の前の情報に私は混乱していた。それに加えて、法律を守る気がない労働でサイレンの幻聴が止まらない今の私は、全てを捨てて現実から逃避したい欲求に駆られていた。まずは祖母のことを伝えなければならない。そう思って母親に連絡したところ、母は祖母の体調を既に知っていた。そして様子見の為に各々の休みを揃えて、祖母が住む松本で落ち合うことになった。

 

祖母の体調を優先するなら空路で直接向かうのが最も合理的ではあるが、私は無理を言ってこの札幌から車で松本へ向かうことにした。

とにかくこの現実から逃れたい、飛行機と比べたら、車と船で向かう方がより時間を必要とする。つまり長い時間現実から逃れられる。このどん詰まりになった現実から少しでも目を逸らすには、こういった非日常的環境に身を落とすのが最適なのだ。こうして祖母との面会が決まった。いいや、これは面会ではない。身体の状態から言うと、祖母はあと1年もせずに死ぬだろう。今の職場を辞めない限り、次に連休を取れるのはおそらく数年先になる。つまりこの面会は最期の顔合わせでもあるのだ。仕事柄有給を取得するのは不可能なので、松本へ向かうための連休を無理やり申請したら休みの無い週が続いた。同時に職場の様子がおかしくなり、例の悪い発作が私の中に現れ始めた。そうして壁に頭を打ち付けながら仕事をしていたら、いつの間にか出発当日になっていた。

 

6/5

夜勤明けで死んでいる頭のまま札幌を発った。小樽までの道は汚れのない晴れ間が続き、道沿いの白樺が薄い風と陽射しに揺れている。六月の初めにしては少し湿った空気が漂っていて、国道5号からは早くも海が見えた。運転している間、私は何故こんなにも現実から逃れたいのか考えていた。それは人生の半分以上を宿痾と共に過ごした事実から染み出る失望か、それともこの先最早何も変化することなく老いる自身への絶望か、それとも単純に今の環境からにじみ出る極度の疲労か、それとも、それとも……。理由は考えればいくらでも見つかった。理由の塊が液体となって私自身の何処かにある容器に注ぎ込まれ、その容器からどす黒い何かが溢れているような気がする。容器、このバケツから黒い液体を溢れさせてはならない。これ以上液体が溢れ続けるとあの頃の最も悲惨だった私に戻ってしまう。既に何度も割れて、頼りない接着剤で継ぎ直されたバケツからから液体が溢れ続ける様子は、近い未来に再びバケツそのものが割れることを私に強く想起させた。こんなことを考えていても全く現実は進展しないというのに。

だから、この時私は再び札幌に帰るまでこの現実をなるべく直視しないと心にきめた。現実を見ない。とりあえずは目的の面会だけを考える。無心でいる。山と海だけを見る。それで良い。頭の中から全てを捨て去ってフェリーターミナルまで運転を続けた。

 

フェリー内へ車を入れ、カーテンだけで仕切られたベッドに荷物を投げ込んで後方デッキへ上がった。小樽周辺はいつも風が強い。出航前のフェリーは動く気配を見せず、文字通り建築物のようで、エンジンが動き出して足元が震えると漸くこの巨大な物体がフェリーであることを理解し初めた。同時にこれだけの巨大物がどうやって洋上を走るのか、頭の悪い幼児のような疑問が浮かび上がった。

船体から凄まじい勢いでバラスト水が吐き出されている。海岸近くの苔か藻に似た色の海はバラスト水の勢いに飲まれ、優しげで少し生臭い泡を撒き散らしていた。出港し、陸地が離れてゆく。自身が海の上にいることに今更気付いた。当たり前過ぎて全く意識していなかった、陸地という一つの拠り所をじわりじわり失ってゆくこの感覚は私に妙な不安を与えた。周囲の乗客も陸地から離れた事実、その不安を感じているからだろうか、誰かに電話している者、ビデオ通話で洋上を見せている者、皆自分が洋上に立っていて、陸地が離れてゆくことを誰かに伝えたがっていた。

そうして10分程デッキにいるといつの間にか陸地は遠くに離れ、海の色は変わっていた。バラスト水に揉まれていた柔和な色は消え、あらゆる優しさを削り取った暗く、硬い青。波の角は固まった樹脂のように際立っている。藍銅鉱を煮詰めて、そこに夜を垂らせばこのように寒々しく、近寄り難い雰囲気の海が生まれるのだろうか。風が蹴上げた波は飛沫となって周囲に飛び散っている。それはまさに一種の威嚇行為であり、私に見られることを海が拒んでいると容易に理解できた。慣れない海の雰囲気に私が飲まれていたのは否定しない。けれども概念としては非生物であるはずの海が、ここまで露骨に感情を見せてくることに圧倒され、その勢いに押されて私は船内に戻った。

船内の窓越しにまた海を眺めた。見たことのある風景を逆から覗いている。石狩の風車とタンク、小樽の水族館、そして神威岬。分厚い窓には今まで吹き付けられた海水が結晶となって貼り付いている。記憶にある陸地の風景もやがて後方に消えてしまった。今見えるものはおぼろげに見えるどこかの陸地、そして反対側には限りない水平線。私は今何処にいるのだろうか。それが分からないだけで足元がぐらつく。これが不安なのか。それとも単なる船の揺れなのか。

 

初めての長距離フェリーで私は一番に船酔いを心配していた。幼少期は父親が運転するボロ車で毎回嘔吐寸前になっていた。事実、船内にいる今の私はあらゆる方向にのっそりのっそりと揺られ、波に乗り上げた船体が真下へ落ちる度に背筋へ寒気が走っている。床を見ると途端に頭痛が始まり、船首部分での強い揺れに生あくびが止まらなかった。でも空腹は時間に関係なく訪れる。仕方なく船内のレストランで軽食をとった。会計を済ませ、出口に向かうと猛烈な勢いで私を追い抜いた中年の女がそのままトイレに駆け込んでいった。隣の個室トイレからは盛大に胃を絞る唸り声が聞こえる。人の苦痛を見ると自身の苦痛が薄まるらしく、私がずっと抱えていた吐き気は何処かに消え去ってしまった。

私の脳から吐き気の心配が失せると、その空きスペースを埋めるかのように疲労が押し寄せてきた。あまりの眠気に意識が揺れている。腕時計は夜の8時を示している。今日あったことを手短に記録し、強めの耳栓をつけて横になった。船体のエンジン音が薄く聞こえる。耳栓をつけていても、救急車のサイレンはずっと耳の裏にこびりついていた。

 

6/6

私は小樽の港にいた。そして仕事の機械をひたすらに動かしていると胸元のピッチが震えた。画面には見るのも嫌な名前が表示されている。胸元全体が詰まるあの嫌な感じが身体を支配して、頭の中にどす黒い火花が散った。

嫌な夢だった。船内は酷く乾燥していて、濡らしたタオルは完全に乾いていた。5時過ぎだった。硬いマットレスのせいで背中が痛む。天気は良いらしく、目が覚めて暫く横になっていたが全く揺れを感じなかった。消えない疲れと喉の痛みを感じながらそのまま天井を見つめていると、潮と陸地の匂いが混ざった朝の気配。6時を過ぎたのでカメラを持って後方デッキに上がった。

突き刺さる日光が眼底を焼き、周囲の風景が全てモノクロに染まる。船の左側には本州が、そして右側の遥か先には佐渡ヶ島の輪郭が朝靄に包まれて淡く見えた。風が全く吹いておらず、海すら寝起きのように思える。海の欠伸から漏れ出た一粒の涙が朝の陽射しで煌めき、それらが何百何千も集まって強烈な光源になっている。朝とは思えない光の強さに目が開けられなかった。モノクロになった世界で私一人だけがデッキにいる。誰の声も聞こえない。足元では船のエンジンが猛烈な勢いで唸っていて、実際とのその音を認識しているのにもかかわらず私は其処に静寂を感じた。何故だろうか。人の気配か、人の声か、その理由が私には分からなかった。

 

新潟港に到着した。車両甲板は暗く、家畜が放つ特有の臭気に満ちている。同乗しているのだろう。係員が車を一台ずつ誘導している。外は快晴、この空間が暗いことも相まって出口の向こう側は真っ白で何も見えない。誘導に従ってランプウェイをまたぎ、新潟に上陸した。札幌から小樽へは慣れた道を走ったので移動している気がしなかった。

これから私は松本まで、一度も通ったことない道を走り続ける。漸く長距離移動が始まった。それにしても、道が複雑だ。普段走る道と幅が全く違う。信号が多い。道が曲がりくねっている。少し下道を走ってから高速に乗ろうと思っていたが、早々にギブアップしてさっさと高速へ入り上田へ向かうことにした。上越道を登り続けると周囲は霧に包まれ、いくらアクセルを踏んでも速度が上がらなくなった。気圧が低くなってエンジンの出力が低くなっているのだ。20年以上前の車、しかもターボすらない軽自動車にこの標高は堪えるようだった。ギアが下がり、回転数が5000を越えても時速90km以上にならず、車内に悲鳴を上げるエンジンの音が暴れまわっていた。車内がうるさくなるにつれて、私の頭が少しずつ静かになってゆく。まるで慌てている人間を見て、自分だけが冷静になってしまうかのように。

祖母に会ったとして、私は何を話せば良いのだろうか。祖母は私達孫と会うのがこれで最後になると理解しているのか。そもそも祖母の体調はどうなっているのか。喧しい車内でこうやって考え事を巡らせ、私は漸く祖母が死ぬことについて理解し始めた。山の霧は晴れず、前を走る車のテールライトを目印にずっと走り続けた。

 

上田での用事を済ませた辺りから頭のふらつきに気づいた。夜勤続きの身体、初めての長距離フェリー、数時間の運転。おそらくこのまま高速道路を使用したら事故を起こすことは確実だ。吹雪の中だったとはいえ、現に私はこの車を一度派手にスピンさせている。下道をゆっくり走るべきと判断し、昼食後に煙草と珈琲で無理やり頭を軽くした。意識がまだはっきりしているうちに松本へ到着しておきたい。注意を払いながら国道254号を西へ走った。

山の中、ひたすら西へ向かっている。頭上の木々はまだ厚い夏の葉を生やしておらず、突き刺す陽射しは葉を通して直接私の顔や腕を焼いた。地面では木漏れ日が風に踊り、山そのものが陽射しによって輝いているような錯覚に陥る。他の車とすれ違うこともなく、私の車が放つ喘鳴を背景にして山の様々な音が聞こえてきた。小さな沢の音、カッコウホオジロヤマガラビンズイ……。音が溢れている。けれども、人間の音は一切しない。それが実に快く、窓を全開にして走った。途端額に汗が滲み出したが、車内を通り抜ける静かな風と山の香りが私の思考を漱ぐこの感覚は何にも代えがたいものだった。

途中、片側交互通行の区間があり5分ほど停止した。古い車なのでアイドリングストップもできず、エンジンを切る。エンジンの音が消え、文字通り周囲は山の音だけに包まれた。野鳥たちの声、木々のさざめき、その中に蝉の声が混ざっていることに気がついた。本州では聞いたことがない声だ。しかし札幌で一度聞いたことがある。エゾハルゼミの声だった。しかも札幌で聞いたような1匹だけのうら寂しい声ではない。文字通りの蝉時雨だった。現実から逃げ続けて北海道に行き着き、夏になると決まって蝉の声に飢える私には余りにも唐突な幸福だった。蝉の声が身体の内側へ染み込む感覚は、ひび割れたコンクリートへ冷たい水が降りかかるそれにとても似ている。その声に私は最早幸福を通り越して呆然としていた。電光掲示場が青く点灯しなければ、その場にずっととどまっていたかもしれない。慌てて車を発進させた。

 

夕方、山を通り抜けて漸く祖母の家に到着した。祖母は老人ホームに入居しているので今は誰も此処に住んでいない。広すぎる庭は祖母の知り合いが借りていて、野菜が幾らか栽培されていた。ネギ、豆、あとは南瓜だろうか、祖母が毎年にように作っていたトマト、ナスはもう何処にも生えていない。庭に自生する紫蘇と茗荷も消えていた。

そういえば、祖母はいつも勝手口に座って庭を眺めていた。ここからは庭が全て見渡せる。試しに私も座った。この場所に座るのはどうやら初めてではないらしく、形として残っている記憶は存在しないのに、この勝手口からどの花や木が見えるか寸分違わず思い出すことができた。目の前に牡丹、右の向こう側には蕗、右手前には母はわざわざ株分けして持ち帰った菖蒲、左手前には円筒形に刈られたコウヤマキ、その向こう側には養豚場とゴミ捨て場。正面の遥か向こうには美ヶ原が少しだけ見える。今でも変わらないのは美ヶ原だけだった。

花は全て雑草に覆われ、養豚場は15年前に潰され更地になっている。人がいなくなった家はこうも容易く荒れ果てるのだろう。祖母はもうこの家に戻らず死ぬのだろうか。祖母が死んだ時、きっとこの家も共に死ぬ。人が死ぬという当たり前のことを、ここまで肥大化させて考えている自分が嫌になってきた。

無駄なことをしていると時間は跡形もなく溶けてゆく。黄昏時はとっくに過ぎていた。さて、今日の目的は達成された。あとは安ホテルへ向かうだけなのに、何故かこの場所を動きたくない。今回の面会は祖母と会う最後の機会であると同時に、家の見納めでもあることに気がついた。何度か庭をぐるりと回る。隣家の間を走る用水路、鷺に全ての鯉を食べられて枯れた池、薪の傍らに転がる錆びた鎌。庭を歩き回るだけで様々なものが目に入り、それら全てに私の記憶が纏わりついていた。目にするもの全てに記憶が付随している。この行為を何度でも続けることができた。けれども、これを繰り返すことが、この家への執着を強くすることも理解していた。そうだった、私はこの家を見納めする為に来たのだった。意識を現実に引き戻し、今此処で貼り付けた記憶を全て庭に埋めた。これで良い。記憶を持ちすぎると、いつかその重みに耐えられなくなる。再び車に乗ってホテルへ向かった。

 

ホテルのフロントは高校生と引率の教員で溢れていた。明日大規模な体育大会が開催されるらしく、長野中の部活生が松本に集まっているらしい。さっさとチェックインを済ませ、賑やかなフロントから逃げるように部屋へ入った。疲労で意識が朦朧としている。椅子に倒れ込み、暫く放心してから水分を取った。30分程でなんとか身体を動かせるようになり、荷物の片付けを終わらせ、今日の記録を曖昧な意識のまま必死に書いた。

これだけ疲れて、頭を痛めて、耳を壊して。何故此処まで私は来たのだろうか。祖母に会う。そう、その為に来たのだ。札幌を発ってから、それ以外の理由を無意識のうちにずっと探し続けている。忘れようと努めてもその理由探しが意識から離れない。これも疲労が原因だろう。もう今日は何も考えたくない。さっさと風呂を済ませてベッドに潜った。何週間ぶりかのベッドだった。

 

6/7

何かの物音で目が覚めた。時刻は6時前。加湿器をつけたおかげで喉の痛みはなかった。眠っている途中何度か覚醒した記憶がほんのりと残っていて、深く眠れた感覚は何処にもなかった。

朝食会場は高校生が溢れかえっていた。今日の大会について食い気味に話している生徒、引率の教員、出張の雰囲気をまとった中年の男。前日に現場入りしたらしい作業員。とにかく賑やかで活気に満ちている空間だった。私にとっては賑やかさを通り越した喧騒ですぐに頭痛が始まってしまい、早々と朝食を済ませて外の空気を吸いに出た。外は静かだ。大きな通りに面しているにも関わらず、町そのものが発する唸り声を聞くことができない。すぐ眼の前にそびえる豊かな山脈にはまだうっすらと雪が残っている。この静寂は一体何処から生まれてくるのだろうか、札幌で只々私を苦しめるあの騒音を恨めしく思い始めた。

 

チェックアウトを済ませた。予定の集合時間までまだ暫くあったので、松本城を横目に近所の自然公園へ向かった。中心街から坂を登った先にある公園の駐車場には、まだ朝の涼しさが漂っていた。静かで、爽やかで、夏の香りに満ちている。気温は高くなりつつあるが、湿度を持った粘り気のある暑さではない高原の気配があった。公園からは松本の盆地を一望できる。あれがサラダ街道、あれが井上百貨店、祖母の家もこの視界の何処かにあるはずだ。

盆地を眺めながら、私は今夏の中にいることを強く感じていた。蝉の声こそ聞こえはしないが、この陽射し、空の色、濃ゆい葉を繁茂させたコナラ。札幌へ逃げてからひたすらに切望した光景を今目の前にして、このまま札幌へ大した理由もなく居座り続ける自身が酷く惨めに思える。この光景を目にして得られる感慨は同時に今の私に突き刺さる刃物にもなっていた。もっと見ていたいけれども、見れば見るだけ自身が傷つく。それでもこの光景から目を離せなかった。集合の時刻が近づいていた。

 

集合場所で母と兄を拾い、祖母が入居する老人ホームへ向かった。ホームの駐車場には伯母が待っていた。

エレベータを出たところにある中央ホールは余りにも静かだった。建物全体から人の気配がしない。ホールには車椅子の老人が一人、じっと俯いていた。そう、一切の物音がしないのだ。ホールの明かりは消灯されていて、まだ高いところにある太陽はその日を注がない。ホールから続く廊下にも人がいない。個室の扉は全て閉じられていて、その向こう側からは何の気配も伺えなかった。昔、職業体験で訪れた老人ホームとは全く雰囲気が違うことに私は若干困惑していた。高齢者が集まって過ごす場所というよりは、老人たちが目前に迫った死を静かに受け入れるための場所のような。墓場に漂うあの冷ややかで静かな雰囲気が辺りに充満していた。

扉を引くと、薄暗い個室のベッドで正座した祖母は窓の外をじっと見ていた。私達に気づいていないようで、声をかけたら祖母は私達を見て驚いた。どうやら孫達が本当に来るとは思っていなかったらしい。祖母は明らかにやせ細っていた。頬の肉が削げ、目元の深い皺は何本にも増え、身体全体が縮こまっていた。肉体としてはいつ寿命を向かえてもおかしくはない。けれども孫を前にした祖母は、私達に相槌を打たせない勢いで話し続けた。先に入っていた入居者は皆先に逝ってしまい、知り合いはもう誰もいなくなってしまったこと。眼の前を流れる川が延々と工事をしていること。今年の自然薯が気になっていること。前会った時私が生やしていた髭は全く似合っていなかったこと。そして孫達が一向に結婚の気配すら見せないこと。予定の面会時間を大幅に過ぎても祖母の勢いは止まらずスタッフの電話連絡で面会は中断されるように終わった。別れ際に私は、理由もわからず祖母に握手を求めた。農作業で固くこわばっていた祖母の手は皮膚が薄く、指という指から筋肉が溶け落ちたかのように柔らかくなっていた。

「また会いにくるからね」

その言葉が私の口から出た。余りにも唐突なことで、私自身この言葉に一瞬動きが止まってしまった。この言葉は明らかに嘘だ。文字通りこれが最後で、次に会えることもないだろう。葬式で死人と向かうのとは話が違う。だというのにこの言葉が口から何の抵抗もなくするりと、勝手に出ていた。祖母はそれに笑顔で応えた。

 

帰りの特急に間に合うよう、母と兄はそのまま伯母の車で駅に向かった。私はこれから新潟に向かう。そのまま北へ上がり、国道148号を走り続けた。

走りながら私はホームで見た祖母の背中を思い出していた。電灯もつけず、音の気配すらない静かな部屋。14時の陽射しは東向きの窓に注ぐことなく屋外を強く照らす。それも相まって一層薄暗くなった部屋で、祖母はずっと川岸のニセアカシアを見つめていた。祖母は木々を、いいや、祖母は窓からの風景を見ていたのだろうか。死を受け入れる準備を静かに、粛々と進める。その過程でにじみ出る一種のやるせなさや諦念があの背中には漂っていた。そんな雰囲気を纏った人間に、私は余りにも軽率な言葉を投げかけてしまった。私の言葉がその覚悟を揺るがせたかもしれない。それは明らかな罪だ。そもそも私のような人間としての失敗作が他人の心理を慮ること事態が不可能なのだ。大抵の人間は生に執着している。私のように何度も未遂を重ねることなどありえない。ではあの言葉は正しかったのだろうか。それとも間違いだったのだろうか。何れにせよ余計なことをしてしまったことは否定できず、その事実が私に新しい傷を作った。

頭の中で様々な思考が溢れ始め、濁流となって意識を巻き込み始めた。停車して暫く落ち着きたい気分だったが、この国道148号にそのような休憩場所はあまりない。フェリーの出航時間も迫っている。すれ違う車もまばらで、時折現れる大型の後続車に抜かされ、山の合間を縫い、山に正面からぶつかる小さなトンネルを抜ける。並走する線路が隣に現れたかと思うとすぐさま森の中に消え、いくつもの橋を渡り、数え切れない洞門をくぐった。電波も届かない山奥をひたすらに走り続けた。祖母の後ろ姿が意識から離れず、私が言ってしまった心無い言葉を後悔しながらずっと走り続けた。気がつけば山を越え、隣を通る川は幅を増して紺碧の豊かな雪解け水を海に送っている。糸魚川下流に到着していた。

 

川。今回の旅程では数多くの川を見た。新潟では信濃川。上田は千曲川。松本では梓川。帰りには糸魚川。そして地図で調べなければその存在にすら気付けない小さな川の数々。札幌で見る川とは全く目つきが異なるのだ。

そもそも札幌近辺の川は周囲を湿地に囲まれているため、私が普段目にしていたような多摩川のような河原が存在しない。そしていつも濁っている。なんならそれらの川は人工的に掘られた川であり、周囲をコンクリと車に囲まれて排ガスと騒音に覆われた、ただの水路なのだ。けれども、今回目にした川の数々は皆河原があり、流れの音が耳に届き、川そのものが色づいて飛沫を上あげ、山の中で生まれた水を海へ送り返していた。このような川を最後に見たのはいつだったか。過去の記憶は余りにもおぼろげで何も思い出せなかった。

 

糸魚川から北陸自動車道で新潟のフェリーターミナルを目指す。高速道路に乗ってしまえばもう地図を見る必要もなかった。辺りはもう夜になっている。祖母の姿は脳裏から離れつつあり、代わりに明後日からの仕事が私の喉元を絞り始めた。仕事のことを考えるとどうしてもこうなってしまう。もう何も考えない方が良い。夜の中、サカナクションを聞きながら無心で運転した。新潟の中心部が近くなると花火が見えた。何処かで花火大会が開かれているようだった。高速を降り、下道を走りターミナルへ到着した。時刻は21時。予定通りの時刻だった。休暇の終わりが近づいている。

 

出航は夜中。荷物の整理を簡単に済ませ、風呂に入ってすぐさま眠った。今日は余りにも色々なことがあり、船酔いの心配をする余裕もなかった。様々なことを考えたせいで頭が完全に茹だっていた。今日だけで6時間近く運転したためか、疲労が思考を鈍麻させている。すぐに意識は消えた。

 

 

6/8

船が唸る音で目が覚めた。朝5時、秋田港に到着していた。波は穏やかで風もなく。辺りをカモメが呑気に飛んでいた。秋田港を発っても波はそのままで、側面デッキの手すりにカップ麺を乗せられる落ち着いた陽気だった。

苫小牧の到着は夕方で、本を一冊読み終えてもまだまだ時間は余っていた。読後の昼寝から覚めると到着まであと90分になっていた。片付けも済ませてしまったのでデッキから海を眺めた。今は室蘭を少し過ぎた辺り。じっと下を見つめると、波の動きが様々に見えてくる。船の生み出した波が通り過ぎた跡には沢山の小さな渦が生じ、波が巻き上げた泡を絡め取って白い斑点模様を作り出す。その泡が弾ける音は私の耳に届くくらいの大きな音だった。デッキの真下には波に乗れなかった海水の泡が集団で積層していて、その各々が泡の輪を広げているのは、テーブルクロスに落とした黒インクが広がる様か、もしくは幾重もの単純な波紋に見える。まだ陸地が遠いのか、漂流物は数分に一度見かける海藻程度で、10分に一度人工物のかけらが遠くを流れていった。船の左側には北海道の陸地がおぼろげに見える。それでも海は相変わらず暗い青色で、その海も30分ほど眺めていると海に明るい緑が微かに混ざり始めた。あと60分で到着。こうやって海を見つめていると少しずつ不安な気分になってくる。私は海が苦手なのだろうか。

 

苫小牧東に到着した。もうここからは何も感じることがない普段の道だ。そしてまた現実に引き戻される。どうしようもない、八方塞がりの日々が始まる。明日のことを考えたくなかった。それでも現実はお構いなしに残酷な事実を突きつけてくる。救急車とすれ違う度に動悸が始まり、見慣れた町の風景に自身が溶け込むこの不快感に思わず叫びだしそうだった。

夜には自宅に到着した。帰ってきてしまった。また嫌な日々が続くのだ。自宅の扉を開けると、北海道らしくない蒸せた空気が顔を覆った。この前買った芍薬の挿花はしおれて全ての花びらを散らし、花瓶の水が腐っている。汚らしい。

 

700km近い距離を走ってくれた老体



 

近況_20250526

いつの間にか夕暮れの西日が網膜に染みる季節になっていました。春も終わりそうだというのに、今年の春にどんな花が咲いたか全く記憶に残っていない。思い出されるのは仕事中の騒音、行き交う普通の人間たちが放つ声、声、鼓膜を通り越して直接脳髄に突き刺さる世界中の音。屋外の音がどうしても不快で大きめのイヤープラグをつけているのに、この街はどうも賑やかすぎるようです。どうして普通の人々はこの音に何の苦痛も抱かずいられるのでしょうか。

 

四月の始めに睡眠のリズムが壊れてしまったようで、今では椅子と寝袋で3時間程度の誤魔化した仮眠で生活しています。どうも私は嗅覚と聴覚が他人と比べて過敏であるらしく、それもあってシャワーを浴びないとベッドが使えないのです。職場で体の隅々までこびりついた人間の汚らしい臭気、屋外に漂う様々な臭気の集合体が、入眠時に自由落下する意識へまとわりつく感覚を理解して頂けるでしょうか。おそらく貴方には理解できない感覚だと思います。

潔癖と言われても仕方のないことです。だからなるべくシャワーを早めに浴びようと努めているのですが、その気力を絞り出すのが最近とても難しくなってきました。帰宅して机に突っ伏し、気づけば朝の4時近く。軋む背中と肩の痛みを我慢して今からシャワーを浴び、6時半に起床することなど不可能。どうしようもないから湿った寝袋にくるまって6時まで意識を惑わせ、曖昧な思考のままシャワーを済ませて家を出る。そのような生活を続けていたら、いつの間にか数少ない休日ですらシャワーを浴びられなくなってしまいました。あまりにも疲れた日などは帰宅してそのまま風呂場に行き、肩甲骨の下まで伸びた髪を乾かすこともなくベッドに倒れ込んだりもします。けれども下手に長時間の睡眠を取ると下手に身体が回復して自身の疲労を自覚できるようになってしまう。それに気づいてからはとにかく酒や寝袋で睡眠と疲労の感覚を騙すようになりました。

それが理由か、最近何を食べても味が分からなくなりつつあります。味覚の障害が一番ひどかったのは受験生のときでした。あの時は炊いた米が粘土のように感じられて思わず吐き出していましたが、今はそれとは幾分毛色が異なる感じです。水と珈琲の区別がつかない、スプーンに山盛りのケチャップを口に放り込んでもそれが何の味なのかわからない。塩を舌にまぶせば喉の奥へ突き抜ける不快感。何かを食べる、食事という行為が面倒になってきました。

もしかしたら私はこのまま味覚を失い、果てには五感全てを失って死ぬのかもしれません。いいや、すでに私は死んでいて、どういうわけかその事実に誰も気がついていないだけなのかもしれません。そう、この私すら自身の死に気がついていない可能性。今の私は死体にアルコール、ニコチン、カフェインが詰め込まれただけの塊で、全身の血液は既に凝固し、日々浮き出る死斑を見ないふりしているだけ。確かに三度の未遂を経験した私ならもう死んでいても不思議はありません。その思っていた方が今の苦痛に理由をつけられる。そうですね、私はもう死んだのです。

 

何かを此処に記録しておこうと頭の中をかき回しても、指先に引っかかるのは吐瀉物に混ざった豆腐の欠片のように汚らしいものばかり。何の意味もなく、目的もないのに明日は容赦なく私の首を締めにかかります。

 

【読み終えた本】

山の音(川端康成 新潮文庫)

ねじまき鳥クロニクル 第1部 泥棒かささぎ編(村上春樹 新潮文庫)

ねじまき鳥クロニクル 第2部 予言する鳥編(村上春樹 新潮文庫)

ねじまき鳥クロニクル 第3部 鳥刺し男編(村上春樹 新潮文庫)

老害の人(内館牧子 講談社文庫)

植物少女(朝比奈秋 朝日新聞出版)

あなたの燃える左手で(朝比奈秋 河出書房新社)

サンショウウオの四十九日(朝比奈秋 新潮社)

受け手のいない祈り(朝比奈秋 新潮社)

近況_20250317

雪が降っています。

 

冬も終わりに近づきつつあるようで、街のあちこちでそのような匂いを感じるようになりました。それは泥の生臭さであり、アスファルトに水が染み込む匂いであったり。けれども今の私が終始感じる匂いといえば、職場に染み付いた甘い死臭です。私は嗅覚と聴覚が人よりも過敏であるらしく、これらの刺激に日々精神を削られています。凍えたこの地は冬になると嗅覚を使う機会が減り、せいぜい感じるのは駅に設置された石油ストーブと地下鉄に漂う黴くらいです。だからこそ時折感じる強烈な刺激は鼻を通り越して直接頭に突き刺さるような気がしていて、そもそも鼻の中に存在する嗅覚の中枢は脳から直接伸びている嗅神経故に、不快な刺激はより一層私の気分を削って傷を与えます。この半年近く続く冬で、嗅覚が私に快い感覚をもたらしたことは片手で数える程度だと思います。珈琲と花くらいでしょうか。常に不快な刺激に包まれていることは私の精神としてはまず好ましくないことですし、今までの冬で幾度となく狂った経験を思い出すと、全ての外界刺激が私に対して被害を与えようとするその陰険さに今年も狂いそうになります。実際、誰もいない職場では気づくと頭を壁に打ち付けていますし、そういった事実が私を否応なしに病人であることを思い出させます。

この半年間不眠が続き、昼夜曜日といった時間的感覚を一切破壊された生活は実に苦しいものでした。フキノトウなどを見かけて春の気配を感じる一方、自身の意志で将来を変化させない限りこのような生活が続くことに絶望や諦めのような負の感情が坩堝の中で熔けて発する熱の不快さ。その熱が私を内面から焦がし、親しい人たちから「会話が成り立たなくなってきたね」という指摘が増えてゆくのです。老いが始まったのでしょうか。以前はそれなりに筋道立てて織ることもできた文章も、今ではこうやって曖昧な思考の中でどうにか形にしている始末です。昔は頭の中に飛び回る数多の言葉を容易に捕まえ自分の手で捏ねた結果文章を書いていた気もしますが、今はその飛び回る言葉を捕まえるのに何度虚空を掴んだことか。そうして捕まえた言葉も、手にした途端に腐臭をたてて原型を失い、汚らしく液状に溶けてしまって指の隙間からこぼれ落ちてゆくのがまるで現実での感覚のように理解できます。失われゆく知能の中でチャーリィは自らその運命を察し、再び施設の扉を叩くまでの苦悩もこのようなものだったのでしょうか。別に私は自身をチャーリィと重ね合わせることなど不可能ですし、その資格もありません。そもそもこの本の内容も思い出せなくなっています。

今の私が抱えている不安を私自身が言葉で表現することも困難になっているようです。今日の私よりも明日の私の方が劣っている事実。単語の羅列で表現するのは至極簡単なことですが、この中に秘められた感情や煩悶の正体がわからない。私は今苦しんでいるけれど、何故苦しむのか私にも理解できない。今の私が幻聴と幻覚に悩まされ、外を出歩けば必ず見てしまう人々の幸福な暮らし。それらを私が欠片すら手にすることができなかったのは、ひとえに自身の劣等や、重大な選択を放棄して流されるままに死に損なった結果であるのは否定しません。だからこそ、この苦しみの源流を探し当てたくて、意味もなく自身の奥底に潜る行為を繰り返しても答えは一向に見つかること無く。であればもういっそのこと、この苦しみは「原罪である」と誰かにぴしゃりと言い渡される方が楽なような気にもなってきました。

 

現在の私は主治医曰く「病気ではない」らしいのですが、ここ数ヶ月で外界の音が際限なく膨らむ妙な感覚に襲われています。加えて、元々あった悩みでもある「音の序列だてに関する不能」が一層顕著になってきました。「音の序列だて」という言葉はきっと貴方にとっては聞き慣れないものだと思われますので説明致します。簡単なことです。人間というのは周囲の音から自身に必要なものを取捨選択して取り込んでいる。つまり車内で誰かと会話しているとき、人間はエンジンの唸り声を無視して相手の言う事を聞き取ることができる。それだけのことです。それが私には昔から難しいことでした。誰かと会話していても、隣にある冷蔵庫が少し震えただけで聴覚のコントロールができなくなる。地下鉄のように音が籠もる場所ではもう何を言われても聞き取ることができません。会話しているときだけならばまだしも、最近の私は外界の音を全て余すことなく取り込んでしまうようになったようでして、耳栓をつけなければ外出もままならないほどになってしまいました。この症状が最近仕事にも影響を及ぼしつつあります。職場での指示が聞き取れない。だからかろうじて聞こえた言葉の断片でその内容を類推する。この行動は無駄に精神を削りますし、元来のコミュニケーション不全がこの精神的疲弊を更に勢いづけるのです。

加えてこれは最近気づいたことなのですが、私はどうやら言語を単なる音として認識している時があるようで、耳に入った単語が言語情報として処理できないことがあるのです。この症状については一つの障害にたどり着くことができまして、私もそれを疑って詳細な検査を行いました。結果は聴覚に関しては全く問題なく、その時の担当医には「音に慣れるため、なるべく耳栓をつけずに生活してください」というなんとも拍子抜けするアドバイスをもらいました。この言葉を時たま思い出し、気まぐれに屋外で耳栓を外すこともあるのですが、その度に凄まじい聴覚への刺激で頭を破壊されそうになるのです。聴覚を通り越した、もはや脳に直接刺さる空気の振動。それが恐ろしくてまた耳栓の生活に戻ってしまいます。健常者はああいった音の奔流にどうやって耐えているのか、全く私には理解が及びません。

 

そう。音なのです。私は常々自身を「音に呪われている」と思っています。幼少期に習い始めたピアノが理由かわかりません。楽譜も読めず、絶対音感どころか相対音感すらも怪しいのにずっと弾き続けたのは今でもその理由が見つからずにいます。自分なりに努力したつもりではあったけれど、コンクール等ではひしめく天才達の演奏に完膚なきまで打ちのめされ、それどころか、そのコンクールで聞いた大して才能もない演奏にも劣る自身が辛くて、悲しくて、同時に悔しくて。そうして逃げるようにやめたはずの演奏なのです。なのに、時たまそういった「音に対する欲求」というものが私を押し殺す勢いで押し寄せ、その度に私はまた苦しんでいます。あの頃はまだそれなりに豊かであった自身の指も、今では萎びて死んでしまいました。指は死ぬのです。それに嫌になって逃げたのは他ならぬ私であるのだから、今またとの欲求がうまれたとして、どの面を下げてまた音に向き合えば良いのでしょうか。

音が欲しい。けれども私には一切の才能もない。そして無い才能なりに努力する気力も、時間も、体力も、健全な精神もない。これらの羅列が見苦しい言い訳であるのは私も重々承知しています。けれども、音をまた取り戻すためにあの時と同じ苦悩を経る必要があるのは、辛いです。どうしようもないのです。加えて今の私は別の音に関して、つまり単なる聴覚的刺激に対して凄まじい嫌悪を感じ始めています。音を求めるのに、私の身体がそれを拒否しているようで、その矛盾が私にさらなる苦しみを重ね合わせています。

 

この数年雪国で冬を経験して思ったことなのですが、冬というのはどうも「耐え忍ぶ季節」であるように思えます。冬の度に狂っている私がこの地にと留まり続けるのは少なくとも間違いである。それは私もなんとなく感じ始めていることです。けれども、この地には捨て難い恵まれた人間関係があり、私が此処にいることで生ずる訪問者との交流も同様に捨て難い貴重で温かいものです。まずは規則的な生活、平穏で静かな生活を手に入れることが課題になりそうです。

先日買った挿し花の馥郁たる香りが漂っています。夜に芳香を強める花というのは怪しくも美しいものです。

まだまだ春は遠いようです。どうぞお身体にはお気をつけて。

 

【読み終えた本】

死の棘(島尾敏雄 新潮文庫)