Twitterには収まらないうだうだを書く。Twitter:@motose__

夏の夜風の涼しさ

先週に大きな山場を越えてから体調が悪化している。

勿論悪化しているのは精神面だ。経験としてすべきことが無くなると必ず精神を病むので、無理矢理予定を詰め込んでいる。誰かと話したり、食事を取ったり、あるいは理由も無く通話したり。それでも背後に潜む虚無感を忘れ去ることは出来ず、相手と別れるとやってくるこの泥のような気持ちに向き合わねばならない。本を読んで他人の人生を追体験することでその虚無感を忘れ去ることは出来るが、あいにく今の私に読書の体力はほぼ無い。今日は意味も無く喫茶店に行って一時間座っていた。スマホを眺めることも無く、ただコーヒーカップを見つめて人の往来を時折眺めていた。出不精なのに、家に長時間引きこもっていると腐ってしまう性分なので無理矢理にでも外出している。今日は植物園、明日は映画館、明後日は、まだ決定していないけど何処かへ。

そうして家から逃げるように外出して何を考えているのか、というと結局自身の病について考えてしまっている。この前の診察で言われたことはどのような意味を秘めているのか、「過去の自身を取り戻すことは出来ない、けれども過去の貴方は同様に今の貴方であるし、同時に今の貴方はこれからの貴方でもある」と私に告げた主治医は私に何を理解して欲しかったのか。数日間を費やしてもその真意は見つからなかった。私がその答えについて考えられる程度には回復していると主治医は判断してそう言ったのだろう。実際に投薬量は半分に減っている。左腕の傷痕は白い線ばかりになった。私は健常者にはなれないけれど、今までの10年間で一番健康になっているはず。寛解が近くなっていることは理解している。喜ぶべき事だ。しかし鬱でない私を演じる方法を忘れてしまった。この先私は私をどうやって演じてゆけば良いのか。わからない。

そうやって正解を見つけられない問を考えていると、どうしようも無くむしゃくしゃしてくる。むしゃくしゃの解消方法は幾つかある。一番の解消方法はこの身に破滅をもたらすので使えない。煙草は止めた。酒は体調を崩すからあまり飲みたくない。そうやって半年ほど前からランニングを始めた。煙草を吸っていた時のランニングはそれこそ5分も走れなかったが、煙草を止めた今では一息でそれなりの距離を走ることが出来るようになった。精神のどうしようもない重りを、ランニングで発生する心肺の苦しみに置き換えて見なかったことにしている。健全な精神は健全な身体に宿るという古めかしい言葉を体現するかのように、走った直後はある程度すがすがしい気分になれる。明るい悲鳴を小さく上げながら柔軟をしていると、腱が伸びる快い感覚にちょっとした幸福を得られた。その後すぐに熱いシャワーを浴びてベッドに倒れ込むと、夏の夜風が私を見つめるのだ。嬉しくもないが、この地では夜風の涼しさがことさら目立つ。そして何処か遠くから夜の音が聞こえる。うなり声のような、震えるような、太陽が眠る時の身じろぎの音なのか。他に聞こえるのは冷蔵庫の震えと深夜タクシー。テールランプが染める赤い天井を何回見ても結局眠れず無駄な考え事を続けてしまう。せっかくランニングで忘れかけた問いかけをこうやって思い出してしまった。また不健康、異常者に逆戻りだ。やはり私は何かに追われている方が健康に生きられる。

しばらくしたらどうせ研究が再開するから、今だけでもこのくすぐったい暇を満喫して、そして少し病んだら何かに追われたい。