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近況_20240207

「便りのないのは良い便り」という嘘があります。便りが何時までも来ないのは、まずその人間が貴方への興味を失ったか、若しくは便りを送る余裕さえも失くしてしまったか。その二通りしか私には考えられません。私がこうやって此処に文章を吐き捨てることが暫くなかったのは後者、自身の体調悪化が理由なのですが。

 

学生の頃は周囲に変人が多い環境、加えて皆自身の思考を言語化する者達だった為に私は大変居心地の良いコミュニケーションを摂取していました。これはあくまで私の勝手な判断ですから、実際はその変人達も内に秘めつつ言語化しなかった何かしらが沢山あったと思われます。しかし私は社会人となってしまい、周囲には所謂「普通の人」が溢れる環境に放り込まれました。嗚呼、普通の人間達は自身の意見を表明しない。表明によって生まれた齟齬を対話で解決しない。陰口や品の無い愚痴が周囲に渦巻いている。それが普通なのです。私はそれに気付くのが遅すぎました。「そんなに陰口が止まらないのなら、本人に直接改善するよう言ったらどうですか」と私が口を滑らし、険悪な雰囲気になったことも数知れません。この半年間で私が変人は愚か、人間として本来備わっている能力を欠如している可能性を嫌というほど感じ取りました。けれども自身の幼少期や記憶の底をかき回してみると、掘り出されるのはそれに似た場面、そして周囲からの鋭く冷たい目線。どうやら元々その気があったようです。私は人間というものが分からない。人間が分からないし、加えて私は他ならぬ私自身が一等不可解な存在と認識しています。私の思考は勝手に始まり、起点から無節制に枝分かれして際限無く私の意識を支配する。思考の濁流は留まることなく、その中心で私は溺れています。そんな状態で日々生活している為に、私の四肢は自身の意識から離れて動くことがよくあるのです。珈琲豆を挽いていたら10分が経過し、沸かした湯が冷めかかっている。食器を洗っていたら何時の間にかシンクに茶碗の欠片が落ちている。洗濯機から取り出したシャツを浴槽に投げ込む。常に頭の中が騒音に埋めつくされている、と表現するのが正しいのでしょうか。勿論今の私が病的状態であるが故にこのような状態にあるのは否定致しません。貴方はどうですか。意識、思考とは他人に共有できない概念だから、私の意識を貴方に理解して貰うことは不可能です。同様に、貴方の意識を私も理解することはできません。概念を共有することの困難さが私にはとても不快です。貴方の頭蓋を切り開き、其処に私の意識を接触することで感覚、思考、意識を一対一で共有できるのなら、私は今すぐにでもそうしたい。私にとって普通の人、健常者の思考は盲人の頭上に広がる空の碧さと同等だと思っています。対話に疲れてしまいました。だから一人で居る時間をなるべく増やそうと思っているのに気付いたら何処かの誰か同士の会話に混ざり込んでしまい、其処で突拍子もないことをほざいて嫌われている。私の行動原理が理解できません。実にこの不可解な存在を一体どうしたら制御できるのだろうと日々苦しんでいます。

 

そうして結局体調を崩し、幻聴幻覚と再会してしまった為に今月から暫くの休養を言い渡されました。遅刻を恐れて寝袋で夜を明かす生活から離れ、目覚ましをかけずに眠る。人間の臭気溢れる煩い地下鉄が私にとってかなりのストレスであったらしく、加湿器の音だけが耳に入る静かな部屋で只々窓辺の日差しを眺めています。この半年間で私は自身を潰されるほどの音に囲まれていました。サイレン、機械の駆動音、アラーム、着信音、扉の軋み。そして人間達の鳴き声。私は聴覚が過敏、というより聴覚と触覚の境界が曖昧と表現すべきで、ある程度の大きな音は全て鼓膜を貫通して直接頭に刺さる感覚がします。聴覚の刺激が結果として痛覚にもなっていたこの半年間は文字通り地獄で、詳しいことを記すことは不可能ですが、今この何も無い生活にある程度の安息を感じています。日差しが深く部屋へ入り込み、コンクリの壁に作り出す白と灰の境界を眺め、挿花が光で揺れる様子を空回りする思考と共に見つめる。頭は勝手に動くけれど、それ以外は「何もしない」ことを久しく行っていなかった気がします。この行為でしか得られない感覚が実在する。この感覚を久しく得ていなかった気がします。鎌倉で迷った時偶然入り込んだ山寺でもこの感覚を得た記憶があるような、他には洞爺湖畔と琵琶湖畔の早朝、祖母が住んでいた山の竹林…。今は雪と氷に閉ざされた街に引き籠もっている訳ですから。機会を得たら山の奥深くにでも行って暫く過ごしたい気分です。

 

休養の身になったとは言いましたが、今の私には幾つか行わなければならないことが残っています。それは様々な手続きだったり、あるいは自身が持つ先天的な障害の精査だったり。私が一体何者であるのか、それが判明したらまた貴方へ伝えることが生まれるかもしれません。それでは。