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夏に失せ物を探す

好きな季節は?という安直な質問があり、各々好き勝手に花粉症だからと春を貶したり寒いのは嫌いだからと冬を蔑んだりしている。私はそれぞれの季節に好きな箇所や嫌いな箇所があるので、どの季節が好き嫌いといったことがない非常に中途半端な性格をしている。4つしかない季節ではあるが、その中でも私にとって夏はなんとなくよそよそしさを覚える、妙な季節になっている。

 

諸手を挙げて「夏である」と同意できる何かに私は今まで遭遇したことが無い。加えて、今住んでいる土地は雪国故に私が過去に積み重ねた夏の記憶を反芻する事も出来ない。暑さが足りない。湿気が足りない。五感がこの土地の夏を認められずにいる。流行の感染症のためにあの夏を感じ取ることが出来る故郷へも帰れずに、夏へのフラストレーションがたまっていく一方だ。

そんな夏は私にとって「存在しない失せ物」を探す季節である。失せ物は何か。恐らく夏に関する記憶だ。向日葵の花畑、庭の蛇口で冷やされた西瓜。これらの記憶は私に存在しない。なのにこれらを経験した気がして、そしてこの記憶の源を探し求めて不機嫌になっている。せめてあの強烈な日差しを、全てを白に溶かしてしまうあの陽光を求めて外に出ても、得られるのは建物の輪郭を際立たせる程度の柔らかな光。蝉の声を触覚として感じ取ることも出来ない。この地の木漏れ日はあくまで柔らかく、地面を黒く切り取る影を映すこともない。天を支えるようにそびえ立つ入道雲は何処へ。この地の空は雲の作り方を忘れたのか、頭上に広がるのは冬のように寂しく、暑さに黒く滲むこともない空気。現実の問題として、この地での夏を私は楽しめていない。蝉の声すら聞くことが出来ない土地でどうやって夏を得るのか。私にはわからない。どうしても夏を感じたくて塩素系漂白剤をばらまいて水風呂に飛び込みもしたが、得られるのは空虚。そうやって無駄に歳を重ねてゆき、結局は夏を生きるのにふさわしくないだらけた中年になるのだろう。

夏に老いは必要ない。だからこそ私はまだ老いを感じる前に、この存在しない夏をどこかで見つけなければならない。今のうちに私にとっての夏を手に入れて、その記憶を塗り替えないようどこかに保存しておきたいのだ。でなければ、私の内に残っている私自身の記憶さえも汚してしまう。

 

どの季節でも私にはそのように存在しない記憶があるが、夏はその中でも際だって特異な季節になっている。恐らく私はそうやって一生夏を「それ」と認めることが出来ないのだろう。