Twitterには収まらないうだうだを書く。Twitter:@motose__

休息未満

不意に落涙する体験というものは人生においてそうそう出会うことがない。6年前に退学か自殺かを迷いに迷った時、落ち着くために煙草を吸ったら壊れた水道のように涙が出たことはあったがそれ以降泣いたことはなかった。そして先月の23日、いつものように無理難題を指示され、いつものように憤慨しながら作業していたら涙がこぼれた。精神の不調より先に身体が壊れたのは初めての経験であり、眼前の事実を把握するまでに時間を要した。それでも数分経つと自身の状態がまたあの頃に逆戻りし始めたことを理解したのでメールでその旨を連絡し、帰宅した。今思えば毎日下痢と嘔吐に苦しみ、それでも実験を進めていたのは明らかな判断力の低下だ。「これ以上は無理」と何回訴えても「私は貴方より忙しい。だからあなたはこの作業を出来る」としか返答しなかった指導教官は一度も研究指導をしていないし、大抵はスマホで現地の言葉を使って電話している。自宅で休息できるようになって幾分か判断力が回復すると、私がいる環境は少なくとも学業に励むことは出来ないと気付いた。

次の日、鏡を見たら頬がこけていることに気づき、試しに体重を計ってみたら4月からの3ヶ月で6kg減っていた。昨日何を食べたかよく思い出せない。朝は珈琲、昼はいつものチキンカツ定食、夕食は食べる時間がない。このルーティーンを春からずっと繰り返していたので体重が減るのは当たり前だ。今日くらいはゆっくりと食事をとろうとトンカツ屋に行って満足ゆくまで食べたら強烈な嘔吐感に襲われ、店を出て自宅に到着するなり全て吐いてしまった。油が良くなかったのか?久々の満腹感に動揺したのか?疑問が浮いては周囲を回る。その疑問達の中に一際目立つものがひとつ。今食べた物は味があったか?この疑問に答えるべくそれから私は数日間、食事の時になるべく味の感覚を逃すまいと集中してみたが、感じられるのは匂いと舌の触覚のみ。よって私は鼻を塞いで舌に食塩を乗せてみた。……刺激。舌は前後で異なる神経に支配されている不可解な器官であるためか、先端では単なる痛み、根本付近ではなにも感じられない。次はケトルの洗浄に使うクエン酸ティースプーンですくって口に放り込んでみた。……この刺激が酸味?酸味と塩味は味の基本5味であるにも関わらず、その違いが分からない。ならば甘味は?常備しているチェルシーのヨーグルト味を舐めてみた。好みの香りだが、香りだけだ。珈琲なら流石に分かるだろう。普段よりも豆を細かく挽いた珈琲は強い香りがした。つまり今の私は味に関して刺激以上の要素を判別出来ないようだ。その事実に気付くと食欲が無くなってしまった。はて、私が味覚を失ったのは何時頃だったのだろうか。私は壊れてしまったのだろうか。今の冷蔵庫は調味料と飴、そして珈琲豆だけを冷やしている。

指導教官には2週間は問答無用で休む、それまでは絶対に行かないをメールに書いたが、それに返信が来たのは7月の始めだった。普段と違い、私の名前をフルネームで書いている。「Take sleep and eat healthy」や「You have my support」等、書かれた文章全てに怒りが湧くが、なかでも「I understand you very well」という言葉には怒りすら湧かなかった。人間について相当理解しているという自信があるようだ。そうやって呆れていたら電話を掛けてきた。本人の声を聞くだけで今の私は吐き気を催している。しかし無視しても何度も何度も着信を飛ばしてきた。辛抱してそれらを無視し続けたら漸く静かになった。

上記の文章を読み返してみたが、普段の私とは違う雰囲気を感じる。何が違うかは私にも分からないが、要するに今の私は心身ともに壊れ始めているのだろうか。いずれにせよ、2週間の休息は現状の把握を可能にしただけであって、私を修復させるには短すぎる。けれどもこれからのキャリアを言わば人質にされている私は明日から再び研究室へ行かなければならない。明日の対応次第でまた行動を決定するつもりだ。

近況_20220622

GW以降休日が取れずに体重が減り、登校時に激しい下痢と嘔吐感を覚えるようになって初めて身の危険を感じました。何時にもましてこの地は身体中を舐め回すような気味悪い風が吹いています。どうやらもう夏が始まっているようですが私がこの地に夏を感じることは永遠にあり得ないでしょう。6年住んで分かったことですが、この地は私に向いていない。幸か不幸か来年卒業して、360°の回り道を抜けてようやくピットインからレース会場を走ることになるそうです。まぁ札幌に住んでいて良かったと思った要素があまりないので後腐れ無く離れられそうですね。就職出来ればの話ですけど。

善意、という概念があります。これが実に困った物で、人の善意に気付くことが出来ないという、なんともおめでたい人間が時たまいらっしゃいます。そんな不燃ゴミは無視するに限るのですが、そのゴミがたまたま自身の上司であったり、はたまたそれは親であったり。今の私にとってそれが今の指導教官というわけです。私は「人には感謝しましょう」という汚らしい綺麗事は大嫌いなので、内心は中指立てつつも「有り難う御座います」とは言っています。外見を適切に見繕っておけば中身を覗かれることはありません。時々その中身を推し量ることが出来る賢い人間や、泥の付いた靴で中身に上がり込む困ったちゃんもいますが。人の善意が分からない人間を判別するのは意外に簡単なことです。例えば冷蔵庫の一口分だけ残っている麦茶、テーブルに置かれたままのコースター、満杯になりそうなゴミ箱。これらを自ら積極的に処理してみましょう。それに気付かれなかったら漏れなくそいつは善意に気付けない人間です。なに、それに気付ける人間は少数だって?当たり前です。人間なんてそんなもんです。ちなみに私の実験室では器具の洗浄に大量のアセトンを使用します。大体2日に1回は補充する必要があるのですが、今のところこれを最も頻繁に補充しているのは私です。日本語が不自由な学生が大量にいる研究室なのでまぁ仕方ないと割り切ることが出来ます。悲しいけどね。話は戻って、私の指導教官は土日構わず実験の指示をします。平日に受講するべき講義の時間を潰してまで実験を指示します。そして漢字はおろか、平仮名すら読めないのでメールの翻訳を私にさせます。さて問題、私は明らかに必要以上の犠牲を払ってこれらの指示に従うのです。その私に返ってくる言葉とは?「この実験やってないよ」「時間の使い方下手ね」「やって」と。善意に気付かないどころか意図的な悪意さえ感じます。餓鬼の相手は疲れます。

はてさて、この指導教官ですが「日本に13年住んでたから日本人のこと分かるね」とのこと。さぁ困りました。私は日本で生まれ日本で育ったので一応日本人と自称できましょう。では、日本人とはなんぞや。指導教官が言っている「日本人」とは単なる行動の傾向を指していると容易に推測出来ます。ではその指導教官は日本人である私を理解出来ているのでしょうか。勿論、不可能です。私を1番理解し、その結果理解どころかその片鱗を推察することも出来ないと絶望している私。それを理解するのは人間を越えた存在なのでしょう。ここまで読んでくれたらもうお分かりとは思いますが、「自分は○○を知っている」という判断はその瞳を潰します。「私は知らない」という結論にたどり着けたソークラテースが如何に偉大であるのかは容易く理解出来ますね。これを読んでいる数少ない変わり者の貴方にはこうなって欲しくないものです。私は何を知るのか。何を以て知ると言えるか。私は何を知らないのか。知識や経験、そして考察の果てにようやく見えるのは不可知の領域です。その不可知から目を逸らさずにいたいですね。

また腹痛が始まりました。精神的に危険なのかもしれませんがもうどうしようも無いのです。退学する羽目になったら今抱えてる、このドブ研究室のマル秘ヤバ情報を流すのも面白そうですね。

函館旅行

札幌に住み始めて7年が経過した。なのに札幌、小樽、登別しか行ったことがないのはどうも道民としての立場を無駄にしているような気がした。大学生は金が無いが時間はある、とよく言われるが私は時間と金が常に足りない。けれどもGWくらいは少しばかりの貯金を崩しても良いのではないか。札幌から近くてそれなりの観光地は何処かと考えて、何も決めずに函館へ行くことにした。生まれて初めての「観光を目的とした1人旅行」である。1人での旅行がどのような感触なのか全く分からないが、とりあえず旅行してみれば私が一人旅に向いているのかどうか分かるだろう。

 

1日目。貧乏学生なので勿論特急など使えない。高速バスというものに初めて乗ったがどの席も隣り合っていないので快適に過ごすことが出来た気がする。全国の至る所に存在する、適度な田舎は何処も同じ風景を持っている。その土地特有の何か、という雰囲気を感じられないのが薄気味悪い。けれども時々視界に入る草花は土地によって様々に植生を変化させていた。道央自動車道から見える景色は常に海と山、そして平面。近景は平面、中景は森、そして遠景に巨大な山がそびえている。あの山は樽前山というらしい。周囲には人工的な建造物が一切無いので山の全体像をはっきりと見ることが出来た。裾野の端から端までをまだ芽吹かない木々が囲んでいる。所々に存在する黒々とした針葉樹は、樽前山に向かって祈りを捧げる礼拝者のように見えた。つまり山そのものが神、そしてそれを取り囲む自然が信者か。神という山と動かぬ木々という巡礼者に、この土地に住んでいた先住民族は何を思ったのだろうか。下らないことを考えてながら時間を潰し、6時間かけて函館駅に到着した。

駅前

さて、イカが有名らしいが昼過ぎではもう市場は閉まっている。何処へ行こうか。駅前立ち並ぶ高層ビルは全てホテルでなんだか圧倒される。駅の南側に船が停泊しているのでなんとなく入ってみた。摩周丸という船らしく、かつて青森と函館を結んでいた船だとか。乗り物は好きだ(バスは嫌いだけど)。そして何より、乗り物に染みついた歴史を感じる瞬間が好きだ。船内には実際に使用されていた通信機器などが展示されていると思わず解説文を隅々まで読んでしまう。特に当時の運航を詳細に記録した映像などがあれば少なくとも2周してしまうのだ。自分が生まれてすらいない時代の雰囲気をこうやって感じることが実に気分良く感じられる。何も知らずに函館に来て、早速良い体験をした。

摩周丸の後部から列車が入り、海を越えた

しばらく南に歩いたら煉瓦造りの倉庫を再利用した地区に着いた。赤レンガ倉庫というらしい。中は所謂どの観光地にもあるような土産物の店だ。正直つまらない。海に面する道では派手過ぎる服装をしたグループがカメラマンを携えて歩いていた。

 

二日目。旅先の初日は必ず眠れず、無理矢理眠ったとしても日の出の前には起きてしまう。今回も同様で、目が覚めたときに外はまだ薄明の大気を纏っていた。ナトリウム灯が無言で列を成し、道を照らしていた。もう眠れないので外を歩いた。朝の湿り気、ひんやりとした空気、騒がしくない町の音色がやけに強く感じられる。そうか、私にとって旅行とは、見知らぬ土地で朝を迎えることなのだろうか。今までの旅行でも朝の光景は必ず記憶している。つまり今の私は、まさしく旅行をしているのだ。1時間ぶらついてホテルに戻ったら朝食が始まっていた。安ホテルの味気ない食事を軽く済ませて市場を見ることにした。函館駅前の朝市に向かったがどうみても値段に見合ったものが売られていない気がする。そして客引きが邪魔だ。私のように普段客引きなどされない人相でもこれだけ引き留められるのだから、害のなさそうな顔の人間にとっては障害物競走に等しいのではないか。一気に食事の気分が失せたが、後ろの観光客が自由市場について話していたので其処に行ってみた。自由市場は朝市よりは地元民向けの場所らしい。食堂のイカ刺し定食は1000円以上したが、朝市の値段を見たら良心的価格と理解出来た。よく食料品店で見るイカは白いが、此処のイカは薄い白。月長石に近い白をしている。断面の角が舌ではっきりと感じられる力強さと、白米と勝負できる甘さが記憶に残る味だった。

イカ刺し定食

何も考えずに函館を旅行先に決めたが、どうやら今の時期は五稜郭で桜が満開になっているらしい。天気は晴れで私に味方している。最寄り駅から五稜郭の間にあるラッキーピエロあじさい本店には既に行列が出来ていた。

タワー


五稜郭タワーを通過すると途端に桜が溢れかえった。北海道では珍しいソメイヨシノだ。札幌に咲くエゾヤマザクラは風に吹かれても散ることは無い。五稜郭では風が吹く度に観光客達が頭上を見上げていた。風が強いのでその分派手な桜吹雪になる。美しすぎてなんだか気分が悪い。「桜の樹の下には屍体が埋まっている」と言ったのは梶井基次郎だが、これだけの吹雪はやはり屍体から吸い取った生命力を源としているのだろうか。そう考えるとこの美しさに感じる不気味さにも納得が出来るような気がした。別に本当の死体が埋まっているとは露ほども思わない。けれども大量の人間が死んだ地に咲く桜には、普通とは異なるちょっとした怖さがあった。

五稜郭の桜

市電の終点駅からしばらく歩くと熱帯植物園に到着した。何故か猿が飼われていて、温泉に浸かっている。解説音声によると温泉に入りすぎた猿は毛が抜けるらしく。よくよく見ると文字通り全裸の(どの猿も全裸ではあるが)、つまり毛が抜けてみすぼらしい見た目になった猿がいる。猿というよりも、退化した果ての人間か。見ていて気分の良い光景では無い。加えて解説音声では偶に死ぬ猿のことを話していた。地位の争いで死ぬ猿というのは結構居るらしい。猿が猿を殺す争いを生き生きと語る音声が記憶に残った。屋内は良くある植物園の熱帯コーナーだった。

花(名前は知らない)

市電に再び乗って逆の終点へ向かった。海が見渡せる岬があるという。海は温暖な場所の概念という誤りが頭から離れないので、その観念を早く取り払いたい。既に今日だけで4km近く歩き、痛む足裏を気にしながら墓場に挟まれる坂を登ると急に視界が開けた。海だ。

眼鏡の視界に入りきらない海が私を迎えている。何を考えるよりもまず私は無意識に眼鏡(伊達)を取った。左から函館に続く北海道の陸地、尻屋崎、下北半島津軽半島、そして松前半島。

函館の遠景 矢印の先が五稜郭タワー

下北半島では大間の風力発電が忙しなく、けれども滑らかに回っている。遠く、遠くの風景だからと行って描画が粗くなる事は無い。動きがカクつく事など勿論無い。けれども実際にこうやって体験しないとそれを事実として認識し、納得することも出来ないのだ。

大間の風力発電

頭上は雲すら存在しない空。上を見上げると、視界の端には海が歪んで見えた。なるほど、光を捕らえる網膜は球状に分布しているから見える風景も勿論球状になるのか。人間は視界を球状に認識している事実を新たに知った。再び海に目を向けると、海面を疾走する風が波紋を作り出している。無限の方向から生まれる波紋は複雑に織り込まれて一枚の絨毯となった。この絨毯は一体誰に捧げられるのか。海を見る山か。それとも何処かに存在するのかもしれない、人間では無い何者か?目を閉じると感覚が冴える。風の丸く柔らかな音、草がさざめく声、ウグイス、波が奏でる艶やかな音色。そしてかすかな潮の香り。これは景色ではない気がする。土地だ。今私はこの土地を感じているのか。ならば、周囲の人工的な音を遮断してみる。そして周囲の人工物を無視する。足下のアスファルトは全て剥がれ去り、人工物のひとつである私も消し去ると、この地にあるのは海、山、そして大気だけとなった。今の私は実体を持たず、ただ見る者として居る。山は無言で佇んでいる。海は私に気づきもしない。不意に海へ飛び込みたい欲求が湧き出た。この風景と、土地を感じて理解したい。もう少しでその片鱗を垣間見ることが出来そうだ。もう少し。そうやって目と耳を閉じて意識を集中させていると、人間の耳障りな声が突き刺さった。数人のグループが喧しく醜く汚らしく踊り、それを撮影していた。何処かに投稿でもするのだろうか。気が滅入ってしまった。腕時計は岬に到着してから1時間経過したと言っている。帰ろう。そう思って頭上を見上げると虹の欠片を見つけた。雨はしばらく降っていないのに不思議なことだ。

虹の欠片(黒丸の内側)

駅前に到着する頃には、すっかり私もあの集団と同じ汚らしい人間になっていた。その後は函館に住む後輩と合流して適当に寿司を食べた。寿司、札幌の勝ち。

3日目。昨日よりはよく眠れた。味気ない朝食を早々に済ませて、今日も自由市場でイカを食べた。函館でイカを食べたいなら自由市場でイカを買い、その場で捌いて貰うのが一番安いのだろう。

イカとホッキ貝

函館山近辺を散策していないので行こうか。そうやって誰もいない市電の駅で一人待っているとなんとなく私自身が町に溶け込んでゆく感覚がする。気のせいだろう。そうしていると風が吹き、雨が降り始めた。雨の岬が見たい。もう頭の中はそれしか考えられなくなった。到着した。海が白い、空も白い、厳しい光景が目の前にあった。立ち枯れた薄と笹が寂しい音をたてている。昨日と同じくウグイスは居るが実に場違いな感じがする。

舞い上がる波の飛沫

強烈な風で波が高く舞っている様子をじっと見てみると、見た目とは裏腹になんだか厳しいという感覚とは異なる何かを感じた。波と波の間は蛍石のように優しく柔らかい色をしている。有機色とでも表現すれば良いのだろうか。昨日の海と比べると、色に関しては今日の方が明らかに生命を感じさせる。

有機色の海

もっと正確に言うなら、海自体が生命たり得ると錯覚してしまうのだ。その視点をもってもう一度海を見ると、明らかに今日の海は生命を感じ、それが私の胸を踊らせた。5分に1度、波が止むときがある。崖下の岩々が波に飲まれず、つかの間の休息に勤しむ静寂。海はまた大きな波を作ろうと深呼吸している。低く、太く、黒く唸る声。いや、この声は私の幻聴ではない。海の向こうから実際に響いている。これが海鳴りか。ますます海が一つの生命のように思えてきた。山はどうなっている?頂上を雲に覆われてこちらを見ることも無い。眠っているようだ。また1時間過ごしていた。強烈な海風に体温を奪われて寒気がする。函館山に行く体力が無くなった。もう適当に歩いて駅前に戻ろう。

生命そのもの

この後は例の有名な坂を見てから北方民族資料館を覗き、喫茶店に到着する頃には既に体力が無くなった。

例の坂 

雨はずっと薄く降り続いている。疲労で意識が飛び、気付いたら雨が止んでいた。西が黄金に輝いている。バスの出発まであと13分。走れば写真を撮ってからバスに乗り込める。無我夢中で走った。

西の黄金

写真を撮り、カメラをしまおうとしたらカップルに写真撮影を頼まれた(カップルかどうかは知らないが)。2人で行く旅はどのようなものなのか。次は誰か誘ってみようか。慌ただしくカメラをしまうと背後で驚く声が聞こえた。虹だ。もうカメラを取り出す時間は無い。スマホで写真を撮ってバスに飛び込んだ。実に良い土産物の風景を貰って帰宅だ。バスの車窓から燃える夕焼けが見える。3分と経たずに夕焼けは青い夜空になった。

土産の虹

 

さて、1人での観光旅行だったわけだが、私の行動原理で観光をすると絶対に人を嫌な意味で巻き込むだろう、ということが分かった。何しろ私は立待岬に合計3時間近く滞在したのだ。誰かと旅行したらこんなことは不可能だ。けれども、この旅行中はずっと一抹の淋しさがあった。つまりトレードオフだ。誰かと旅行する楽しみ、充実感を取るか、それとも1人で思う存分その土地を味わうか。まぁ今回の旅行は思った以上に楽しめたので満足した。次は何処へ行こうか。

 

鬱から寛解して

今年の始めに投薬が中断されて1ヶ月が経過した。

「経過を見たいから年度が変わったら一度来てね」

と言われたので4月にもう一度クリニックを訪れた。私はこの1ヶ月で生じた変化をわざわざ紙に書き起こし、それらが意味することを聞きたかったが主治医は

「もう来なくて良いでしょう」

と診察をあっさり終わらせた。このクリニックに通い始めて4年、考え続けた結果生み出された愚考の数々は誰に話されることも無く宙ぶらりんのまま。このままではなんだか納得がいかないのでこうやって殆どの人間が見ないだろう場所にひっそりと残す。Web上に残す理由など無いが承認欲求の怪物には抵抗できなかった。

鬱から寛解して何が変わったのか?それを私が最も実感したのは身体的な要素だ。声が出ない、靴紐が結べない、文章が読めない等々。脳が壊れた結果、人間が思考せずに行える動作を奪われたのは実に私を沈鬱にさせた。治療によって健常者と変わりなく、とは言えないがある程度の身体所作を意識せずに行えるようになった。現在でも細かな動作は手が震えてしまうが、ここまで回復したのだから良しと無理矢理納得している。感覚は身体的要素に組み込まれるのだろうか。粘土の味がする白米は噛めば甘みを感じるようになった。季節で変化する町の香りを区別出来るようになった。朝焼けの空を見るためにわざわざ外出するようになった。そして聞くだけで傷ついた曲を落ち着いて聞くことが出来るようになった。恐らく感覚もそれなりには回復したのだろう。10年以上続く激しい耳鳴りは未だに消えないが仕方が無いと割り切っている。

では寛解して変わらなかったことは?勿論ある。希死念慮はずっと私の首筋に住み着いてことある毎に私を屋上へ誘っている。他人の視線は変わらず私を突き刺しているし、往来ですれ違うと罵声が飛ぶ。幻聴や幻覚は全く消えず、今でも私を驚かそうとしている。けれども、私はそれらが幻であると理解出来るようになった。だから飛んでくる負の感情は全て幻影、たまに現実世界からのネガティブな槍が突き刺さっても気にしないフリをすることが出来るようになった。私から発生する負の感情、そして周囲から降りかかる負の感情。今までならこれらを真に受けて泣いたが、今では「そうである。だが私は傷つかない」と宣言することが出来る。実に歪んだ生き方だが、これが恐らく私にとっての最善手だから今更変える気は無い。

さて、晴れて精神の枷から自由になったが、此処で一つの疑問に私は直面した。私は病人だった。病人であることが私にとって一つの強烈な属性となっていた。下品な表現をするならば、私はメンヘラだった。キチガイを見るのは実に愉快なことであるし、事実私はそのキチガイを演ずるのが実に快感だった。ところが今はどうか。私は病人では無い。ましてや健常者でも無い。私は何者なのだろうか。このインターネット世界で私は常にメンヘラを演じていたから、今の私はどのように振る舞えば良いのか全く分からないのだ。私を表現する言葉が何も無い。この世界で属性を持たないことは死を意味する。どうやら私はこの病と捨てると同時にインターネット世界での身分を剥奪されたようだ。怖いか?怖いに決まっている。恐怖、焦燥、絶望、あらゆる負の感情が今の私に当てはまるだろう。しかしそれで良い。死なずにいられるのならばそれで良い。割れた器を継ぎはぎして修復したのだから、要らぬ圧力を掛けると再び精神が割れてしまう。何者にもなれないと自覚して生きることを強いられる。苦しいことだけれども、絶望の血に塗れた底なし沼から這い上がったのだからそれくらいは出来るだろう。

私は健常者では無い。しかし私は病人でも無い。実に中途半端な立場だが、少なくとも私は自身の暗い部分を曝け出す資格を失った。だから私はこの投稿を以て、鬱に関する発言を全て終わらせる。以降私はこの話題について一切口にしない。病気であることを誇りにして生きたくは無いから。私は前を向いて、光を見て生きる。なんてことを高らかに宣言することは出来ない性格なので、影を直視せず、時々前を見ながら生きることにしたい。

さようなら、私の影。もう再会しないことを願って。

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帰省

「まーた痩せて帰ってくるんだからもう」

実家の玄関を開ける時に毎回聞く言葉だ。帰省の回数を数えなくなったのはつまり、今の住処に適応し始めているということ。歴史は無く、学も無い地元。金だけはあるから買い物や移動に事欠かないこの町に、愛着という概念を私は抱いたことがない。帰省の度にビルが取り壊され、新しいビルが生えてくる。変貌を続けるこの町は私にとってよそよそしい。それは私が壁を作っているだけなのかもしれない。町に気を使って、親にも気を使う。帰省とは実に疲れる行為だ。

実家に居心地の悪さを抱くのは珍しいことなのだろうか。私は両親に様々なことを隠している。それは再発した病のことだったり、自身のセクシャリティについてだったり。知られたくないことを抱えながら親が望む息子を演じるのは実にストレスだ。だから私は帰省中なるべく外出している。東京は時間を潰せる場所が幾らでもあるから困ることはない。上野の美術館、葛西の水族館、そこら中にある書店……。地元に知り合いはいないので常に1人で行動している。小学校の記憶は意図的に封印し、忘れた。中高時代の知り合いで未だに連絡を取り合っている者は一人も居ない。大学の友人達が帰省で旧友と会ってきたという話をする度に、普通の人間として交友関係を作ることが出来なかった劣等感をほんの少しだけ抱く。帰省しても会う友人が居ない、そして親には気まずさを感じる。地元にいることが孤独感をより深めてしまう。つまり暇なのだ。

暇に飽かせて実家のTVを何も考えずに眺めていると、世間が普通と考えるシーンをよく見かける。CMで描写される家族というのは皆仲が良く、共通の目的を持って共に行動している。そうして自身の家族について考えてみると、我々という家族が如何に歪なのか否が応でも理解してしまう。別に暴力を振るうだとか、酒に溺れているといった分かりやすい歪みではない。家族全員の視線が同時に交差したことを一度も経験しなかった。私が幼い頃、父親は早くて21時の帰宅だった。父親が夕食に合わせて帰宅出来るようになると、兄が進学で家を出ていった。私は家族で遊んだことが一度も無い。これは当たり前なのだろうか。それぞれが内面に引き籠もる趣味を持っていたので、家族間であれが良いこれが良いといった話はしなかった。会話の内容は大抵するべきことの話し合い、つまり会議だ。両親は職場結婚で、父親が上の立場にいたためか、今でもその関係に上司と部下の影を感じている。数年前、母親は慣れないワインに酔って

「社会貢献として結婚したの」

と口を滑らせたことがあった。父親は結婚するつもりはなかったらしく、兄が生まれてから慌てて普通四輪の免許を取ったと言っていた。おそらく父親はこの職業についていなかったら誰とも交流せずに一生を終えただろう。共通点が存在しないのにここまで両親が離婚しないのは、子供がいるからだ。子は鎹という諺があるが、それは私達に当てはまらない。息子を人質として家族を維持しているのだ。これに兄は早くから気付いていたようで、さっさとこの家を飛び出して今はもう私としか連絡を取っていない。私もこの家族を維持するために聞き分けの良い息子を演じ続けたが、そろそろ限界が近づいてきた。つまりこの家族から離れたいのだ。独立もしていない、寧ろ親の脛を骨の髄までかじり尽くしている私がこんなことを考える資格があるのかというと、無い。けれども私は私の事を考えなければならないし、もう好きにさせて欲しい。

実家には沢山の記憶が残滓となって漂っている。未練とでも言おうか、それらを清算する必要があった。だから私は手始めに、この家の私物を捨てることから始めた。今住んでいる部屋に置けない物を除いて全てを捨てよう。元々私の部屋だった空間には大量の段ボールが積み重なっている。中身を全て確認したら、記憶がこびり付いているガラクタばかりだった。記憶。過去の物には漏れなく当時の記憶が付随している。物を手にとって当時に想いを馳せるのは快楽と表現しても過言では無い。勿論私もそうやって過去を覗き込みたくなる。けれども私にとって過去は全て醜い記憶に埋め尽くされているし、そもそもそうやって物質を媒介としなければ思い出せない記憶など無価値だ。勿体なくも無い。文字通り私は清算しなければならないのだ。幼稚園の頃集めた石、庭にばらまいた。棚を埋め尽くす知育玩具、全てゴミ袋に投げ込んだ。両親が捨てたくないと言った私の図工作品、バレないように細かくしてゴミ袋に突っ込んだ。当時朝7時から家電量販店に並んで買った大量のベイブレード、ゴミ袋に流し込んだ。母親がヒステリックを起こして叩き割ったゲームボーイアドバンス、思い出したくもない記憶を振り払って捨てた。高校の部活で使ったが今はもう押し入れの香りが染みついたインラインスケート、大きめのゴミ袋が必要だった。捨てる。捨てる。捨てる……。目に付く私物は全てゴミ袋に詰め込んだ。残ったのはそれなりに価値がありそうなゲーム機器類がカラーボックス3つ。本が段ボール2つ。そしてピアノが2台。居間には当時のVHSが棚を埋めているが、これらを捨てるには時間が足りなかった。次の帰省の目的としよう。ホコリまみれになって空き部屋をぐるりと見渡す。私の私物は殆ど無くなった。足下には40Lのゴミ袋が4つ。これが20年間ため込んだ記憶の体積だった。

両親は未だに私が病を背負ったものの健全な人間として生きていると思い込んでいる。私のこれからが楽しみ、というよりもそれ以外に楽しみを知らないらしい。人生の大半を親として生きると、そのような考え方が染みついてしまうのか。そういえば、去年父親は孫が楽しみと言った。もう勘弁して欲しい。人を好きになるという概念が理解出来ない私に言う台詞では無い。そもそも、両親は壊れた遺伝子を他人に乗せることに罪悪感は無かったのだろうか。無いだろう。それが出来るのなら今頃離婚している。帰省中両親は私のことを見ていたが、それぞれがお互いを見ることは一度も無かった。

帰省を終えてアパートに戻ると、嗅ぎ慣れない匂いに包まれた。記憶を辿る。そう、この匂いは4年前始めてこの部屋に入って感じた匂いだ。2週間の帰省は私の感覚を実家に再び縛り付けるには充分過ぎた。どうやら生まれ育った家の記憶はそうそう簡単には消えてくれないらしい。呪縛のようだ。そうやって部屋で呆然としていると母親からの着信だ。到着したと報告しないと面倒なことになる。電話を切るタイミングをつかめず、一方的な会話に付き合う。この狭苦しく寒い部屋に私の声だけが反響していた。

感情の17歳

泣いて、笑って、悲しんで。感情は意図しないところから湧き立ち、本人を飽き飽きさせることなく刺激する。

特に人間の17歳は、溢れ出す感情の奔流に翻弄される貴重な時期だ。この時期に感情という感覚に慣れることが出来ないと、私のようにちょっとした悲的感情に打ちひしがれて数日を無駄にする。

私はあの時、何も考えず日々を過ごしていた。そう、大人になる直前の、最も成長した子供の時。不必要に成長する体に精神が見合わず、小学11年生といったほうがお似合いの醜い餓鬼だった。この時に抱えていた感情を捨て去って、「それはそれ、これはこれ」と表面上でもいいから納得できる姿勢を身につけることを当時の私は拒んでいた。昼休みの屋上で見つめた黒い空、雨に煙るグラウンド、誰もいない中庭の桜。私にとっては「17歳の私」がそれらを見られることが幸福を意味していた。16歳はまだ高校生として未熟で、中学生の名残を感じる、青年と表現するには些か幼稚すぎる存在。18歳は現実という壁が否応なしに目の前を塞ぎ、進学のためにひたすらペンを走らせる存在。19歳はそもそも大学生というだらしなさの塊だから、この時を特別と思うことはなかった。というか私は浪人してノイローゼになっていた。だから私にとって17歳は、若々しい感情を最大限発露出来て、現実を見る必要なしに只々美しさに陶酔出来る年齢なのだ。

けれども美しい存在をより美しく感じる17歳は、醜い存在をより醜く感じる17歳でもあった。自身という醜い存在を認めることが出来なかった私は、自身の存在への言及から全力で逃げた。この美しい世界にまさか私のように、醜く劣った存在がいるとは到底許されることではない。自身への悪意は他人へのそれと違って明確な結果を残すことが出来た。美醜関係無しに私はどうしようもなく存在するという事実を受け入れるまでに10年以上を必要とした。

このように17歳の感情は存在そのものを揺るがす劇物にもなり得る。だからこそこのような若々しくも痛々しい感情は価値を持つのだ。17歳から10年以上が経過した今もあの頃の光景を夢で再び見ることがある。午後5時の夕日が全てを哀情の橙に染める時、空っぽの教室に一人佇んで校庭を見る友人に抱いたあの感情。これこそ私が人間に対して求めていた感情だった。この感情をずっと大切に抱きかかえることができるなら、一切の成長を拒む覚悟さえできた。そして、この光景を見ることができる身分にいることを最大の幸福と思い、同時にこの身分が終わりつつある現実を酷く恨んだ。

そうやって夕日に溶ける教室をじっと見つめていた私は、10年経っても未だに現実を見ることが出来ずにいた。人より随分遅れて人生を進めていると、かつての友人が働き、家庭を持ったという知らせが来る。未だにモラトリアムを続けて17歳の時に得た感情を反芻しているこの私と同じ時間を生きて健全に成長した人間は、既に自身の欲求よりも大切な存在を見つけている。そんな時に私は、自身が持つ17歳の感情を邪魔と感じてしまうのだ。それは全く間違っていない。正解であり、あの頃の感情を捨てて現実を見るのが社会に生きる人間にとって当たり前なのだ。この感情を捨てずにいるのは悪なのか?これは私が社会人になっていないから、そして何者かの為に生きるという行為を未だ経験していないから感じる負い目なのだろうか。そうだ。きっとそうに決まっている。だから社会人になるまではこの感情を捨てる理由がない。今は捨てる時ではない。この感情を離さずにいるつもりだ。

 

私がこうやって17歳に固執する理由はとある本が強く影響している。私の大切な本。私を形作る数冊のうちの一つだ。こんな所で題名を述べることは到底出来ない。

ピアス

※耳に針を貫通させる画像があります

 

ピアス。それは合法的に、正確に表現すると正当な理由を付けて己を傷つけることができる行為である。私のように気が狂った人間がこれを行わないはずがない。所詮私は人間の失敗作、害悪である。

ピアスと言われるとまず思い浮かぶのはイヤーロブ、つまり耳朶につけるピアスだろう。

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図1. 箇所別の名称

ピアス初心者の私も勿論耳朶にピアスを開けた。初めてのピアスはピアッサーを使い、1回で2カ所を開けた。文字通り初めてなのでピアッサーの扱いなど全く分からない。ピアッサーを耳朶にあてがい、どのような力であてがえば良いのか躊躇していたら、残念なことにピアスが完全には貫通しなかった。つまり完全に貫通させるために、半分ほど耳朶を貫いた針を完全に貫く必要がある。己の指を使って力任せに貫通させる時の感覚は正に快楽、そして耳朶を貫く「バツバツ」という音がとても心地良かった。

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図2. 文字通り腫れ上がった初めてのピアス  ホールの場所がダサい

イヤーロブのホールが完成するのは大体1ヶ月半、長くても3ヶ月程度。それまではファーストピアスと取ることが出来ない。けれども私は丁度予定となっていた解剖実習の為、死体に敬意を払うために、ピアスを開けて1ヶ月なのにそれを外してしまった。結果は明白である。自身の再生力をこれほど恨んだことはない。実習を終えて帰宅したらホールは完全に塞がっていた。それ以降耳に穴を開ける行為に興味は湧かず、別の方法で自身を傷つける事に躍起になっていた。傷を重ね、それに幸福と絶望がない交ぜになった感情を抱いていた時、たまたま講義でピアスのことが取り上げられた。話題に上がると興味が出てしまう。私の軽率かつどうしようもないこの性格がまた私を誘惑し始める。そうして私は耳朶に再び5つの穴を開けた。それでも満足しない。この時の感覚は今でも明確に覚えている。痛みが自身の原罪を薄くする感覚、そして直接的な快楽。これ以上ない幸福だったのかもしれない。

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図3. 耳朶に5つ 見た目が悪い

けれども、耳朶に5つのピアスは気味悪がられる。クラスメイトにも苦言を呈され、当然のように両親には拒絶された。そうして私はホールが完全に完成しないことを理由に、2つのホールを閉じた。

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図4. 反省も兼ねた3つのピアス

これにて耳を傷つける行為は終わったと私自身も思った。けれども、世の中には耳の軟骨部分に穴を開ける軟骨ピアスなるものが存在すると知ってしまい、自傷に並々ならぬ欲求を抱いている私はそれについて羨望ともとれる感情を抱いていた。折しも、研究室に配属されて教授の私的なマネジメントにストレスをため込んだ私は、とうとう(?)軟骨に14Gのニードルを刺すと決心した。部位はアウターコンク。耳の裏に消しゴムを添えて、キシロAを塗りたくったニードルを貫通させる。耳を貫通した感覚が全く無いので強くニードルを押しつけていたら、いつの間にか消しゴムにニードルが深々を突き刺さっていた。この時は全く痛みを感じず。痛みを欲していた私はその1週間後にまたアウターコンクを開けた。

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図5. 耳に針が貫通している様が実に面白かった

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図.6 さほど腫れ上がらなかった


満足する痛みを得られたが、残念なことに軸がずれてしまったようでマスクを取り外す度に紐が引っかかるようになってしまった。しかも、歯医者に行ったときにレントゲン撮影するからとピアスを外した時に再び出血してしまった。アウターコンクのホールが完成するには長くて2年は必要。なんだか面倒になってしまった私はアウターコンクの1つをはずした。

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図7.再び浮かれ上がる

 

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図.8 反省して1つ減らした図



長く付き合った病に別れを告げる日が近づきつつあり、同時に己を傷つける行為に疑問に抱き始めてもいる。つまり以降私が耳に新しい穴を開けることもない。今後立ちはだかるだろう就職活動も考えると尚更こんなことはしていられない。健常者に近づく為にはそれ相応の見た目が必要とされる。穴は減っても、増えることは無いだろう。自身が健常者になれることを願うばかりである。

 

 

健常者の皆様へ。ピアスは耳朶に1つ。両耳合わせて2つが限界だと思います。